魏1 

魏2 

 

 

 

 

 

創作&伝承 

目次 


えいじょ

衛瓘(220-291)の娘。恵帝・司馬衷(259-307)の妃候補だった。
衛氏の家系は賢く、男子が多く、背が高く、色白の美形が多いため、司馬炎が息子の妃に求めた。
結局は嫉妬深く、男子が少なく、背が低く、色黒の醜い者が多い賈家の賈南風が選ばれる。

衛母

えいぼ

衛玠(286-312)の母。衛瓘の子・衛桓の妻。王渾(223-297)の娘。王済(246?-291)の姉妹。
鍾琰の娘で、兄・王済が嫁ぎ先を選りすぐった妹と同一か。

王媛姫

おうえんき

武帝・司馬炎の側室。懐帝・司馬熾(284-313)を産んだ。
炎の後宮に入った時に中才人となり、早くに亡くなる。
懐帝が即位すると皇太后に追尊される。

王中才人、懷王皇太后

王恵風

おうけいふう

司馬衷の子・司馬遹(278-300)の妃。太尉・王衍(256-311)の末女。
長姉の代わりに愍懐太子の妻となる。
太子が廃された後、父が遹と離婚させると号泣して家へ戻った。
劉曜が洛陽を陥落し、曜の将の喬属に妻として贈られるが、剣を抜いて属を拒む。
「私は太尉の娘で皇太子妃です。逆賊のえびすに辱しめられる不義はしない」と言い、属に殺された。

王小女、湣懷太子妃

王元姫

おうげんき

王粛の長女。王朗の孫娘。司馬昭の妻。司馬炎の母。東海郡郯の人。
泰始(太始)元年(265年)に皇太后となる。
高い身分にいても普段の仕事を思い続け、華麗さをことごとく棄てた生活をしていた。
泰始四年(269年)に没すると崇陽陵に合葬される。

文明皇后、崇化宮
崇禮宮(王隱『晉書』)

おうじょ

王粛の娘。蒯良の子・蒯鈞の妻。王元姫の妹。
孫秀(?-302?)に嫁ぐ娘を生む。

おうじょ

王衍の娘。裴遐の妻。

おうじょ

王渾の孫娘。王戎(234-305)の娘。裴頠(267-300)の妻。

王大女

おうだいじょ

王衍の長女。美女と評判だった。
賈南風が賈謐の権勢を保つために結婚させた。

おうまい

王済(246?-291)の妹。鍾琰の娘。衛玠の母と同一人物?母同様、賢淑な才女だと評価される。
、王済が妹のために婿を探した際、兵士の家の男を気に入り、母の鍾琰に相談する。
鍾琰は「才能があるなら家柄は問いません。しかし一度私にその者を見せてほしい」と言い、王済は婿候補と大衆を集めた。
王済の言う男を見て、「あの者の才能は際立っています。しかし家柄が低く、長生きせねば才を活かせないでしょう。
あの顔立ちでは短命です。結婚はさせられません。」と言い、王済は従った。その数年後、兵家の男は亡くなった。

かいじょ

蒯鈞の娘。王粛の外孫。孫匡の孫・孫秀(?-302?)の妻。

郭槐

かくかい

字媛韶。一名を玉璜。太原陽曲の人。城陽太守・郭配の娘。郭准の姪。賈充の後妻。賈南風、賈午の母。
21歳で賈充に嫁ぐ。
嫉妬深く、息子を抱く乳母と賈充が親密な仲だと勘違いして乳母を殺すと、子もまた死んだ。
青龍五年(237年)生まれで元康六年(296年)没。

廣城君、郭玉璜(世説新語)
郭媛韶,
宜城宣君(郭槐墓志)

郭氏

かくし

郭槐の兄弟の娘。司马伷の次子・司馬澹の妻。賈南風の従妹。

かくじょ

郭准の弟・郭配の娘。裴秀の妻。

かくじょ

郭配の孫娘。郭豫の娘。王衍の妻。

がくじょ

尚書令・楽広(?-304)の娘。衛玠の前妻。

がくじょ

楽広の娘。司馬炎の十六子の成都王・司馬穎(279-306)の妻。

成都王妃

郝夫人

かくふじん

義陽の人・郝普の娘。王渾の弟・王湛の妻。
徳行に優れた賢媛。低い身分だったが義姉の鍾琰とは親しかった。
己の身分が卑しいからといって鍾琰にへりくだりはせず、鍾琰も名家の出だからといって偉ぶらなかった。
当時の人はこれを鍾夫人の礼、郝夫人の法と称賛した。

夏侯徽

かこうき

字媛容。夏侯尚の娘。母は曹真の妹の徳陽鄉主。211年生まれ。
司馬懿の長男・司馬師の初めの正室で、五女をもうける。
見識があり、司馬師が事あるごとに助言を求めた。
夫が魏に不忠だと気付いてから不仲になり、青竜二年(234年)に毒殺される。享年24歳。
泰始二年(266年)に司馬師の後妻・羊徽瑜の働きかけにより、皇后に追号される。

景懐皇后、夏侯媛容

夏侯光姫

かこうこうき

小字銅環。淮南太守・夏侯尚の娘。曾祖父は夏侯淵、祖父は夏侯威。沛国譙の人。
司馬覲の妻。元帝・司馬睿の母。

夏侯王妃、夏侯太妃

夏侯

かこうじょ

夏侯覇の娘。羊祜の妻。
夏侯覇が蜀に亡命した後、夏侯一族と縁を切る者が続出したが、羊祜は離縁しなかった。
呉が平定されると、羊祜の功績を讃えて万歳郷君に封じられた。

萬歳郷君

賈午

かご

大尉・賈充と郭槐の娘。賈南風の4歳年下の妹。
韓壽の妻となり、産んだ韓謐(?-300)は賈家の跡取りとして賈謐に改姓する。

賈南風

かなんふう

賈充と郭槐の娘。司馬衷の皇后。
河東公主、臨海公主、始平公主、哀献皇女(女彦)、弘農郡公主(宣華)を産む。
肌が青黒く背が低い醜女。
非常に嫉妬深く残忍で、夫の子を身籠った妾に戟を投げつけ母子二人を殺すことがあった。
永康元年(300年)に司馬倫により皇后の座を廃した上で処刑される。
生前の悪行の報いか、史書上で度々「庶人」と貶されて書かれる。

恵賈皇后
賈庶人、賈

毌丘氏

かんきゅうし

毌丘倹の孫娘。劉含の母。

毌丘氏

かんきゅうし

毌丘倹の孫娘。王粛の子・王虔の前妻。

韓氏

かんし

竹林の七賢の一人・山涛の妻。
夫が稽康と阮籍に一度会ったきりで親友になったのを不思議がり、夫に頼んで二人をこっそり見せて貰った。
山涛に言うに、「あなたの才能は二人にかないません。見識と度量でお付き合いなさるとよいでしょう」
それを聞いた山涛は「彼らも私の度量はいつもほめているよ」と言った。

顔氏

がんし

王渾の後妻。琅邪の人。平民の出。
王渾が徐州刺史だった時に嫁ぐが、平民の出身を理由に正式な婚儀を行なわなかった。
それを知った王渾の子・王済は顔氏を継母でなく妾だと思い、母として接せず「顔妾」と呼んでしまった。
顔氏は妾呼ばわりされたことを恥ずかしく感じたが、王家は名声があり地位も高いので離婚することはなかった。

顔妾(世説新語「尤悔篇」)

厳憲

げんけん

憲は字。杜有道の妻。京兆の人。
十三歳で杜氏に嫁ぎ、十八歳でやもめになり、再婚せずに息子と娘の二人を育てた。
杜植は南安太守となり、娘の杜韡は傅玄の後妻となる。
杜植の従兄・杜預が秦州刺史になり、讒言を受けて招集された際に厳憲は杜預に手紙を出した。
「ことわざに、辱しめに耐えれば三公に至ると言います。あなたは今辱しめに遭っていますが、よく耐えなさい。
きっと高官に就けます」と戒めた。そうして杜預は儀同三司となった。

げんこ

阮咸のおば。陳留尉氏の人。『答阮咸書』一篇を残す。
阮咸の母が亡くなると、遠方から実家へ帰ってくる。
家には鮮卑族の奴婢がおり、阮咸の間に子(孚)をもうける。

げんまい

厳憲の妹。娘は傅玄の前妻の子・傅咸(239-294)の妻。
六歳の傅咸が継母の杜韡に連れられて厳憲に会いにくると、厳憲は咸の人相を見て褒めた。
「お前は千里を駆ける名馬です。必ず遠くへ至る(大成する)ことができるでしょう」
その後、妹の娘を傅咸に嫁がせた。のちに傅咸は御史中丞,司隷校尉の高官に登りつめた。

皇甫従姑

こうほじゅうこ

皇甫嵩(?-195)の曾孫・皇甫謐(215‐282)の従伯母。城陽太守・梁柳の母。

ごじょ

鎮北将軍・呉質(?-230)の娘。夏侯徽没後に司馬師の正室になるが、離縁される。

胡芳

こほう

鎮東大将軍・胡奮の娘。胡遵の孫娘。司馬炎の寵姫。武安公主の母。
泰始九年(273年)、容色をもって司馬炎に選ばれた後、声をあげて泣くと周囲から「陛下に聞こえてしまう」と制止を受ける。
「死をも恐れないのに、なぜ陛下を恐れる必要があるのですか」と言い返した。
父の胡奮も娘の後宮入りに涙を流し、「老いぼれは死なず、ただ子どもが二人あるのみ。
その子どもも息子は九地の下(墓)に入り、娘は九天の上(後宮)にあがるのか」と嘆いた。
胡父女の思いとは裏腹に司馬炎から気に入られ、皇后に次ぐ華美な衣装を身に着けていた。
投壺の遊びをした時、矢で司馬炎の指を傷つけ、怒った炎に「やはり匈奴を討った将軍の子だ」と皮肉を言われる。
「北の公孫は討ちましたが、西の諸葛(諸葛婉)には及ばないので、将軍の子ではありません」と返事をし、炎は恥じ入った。

胡貴嬪、胡貴人
胡夫人

さいこ

崔悦のおば。劉琨(271-318)の妻。

蔡氏

さいし

羊祜(221-278)の伯母。羊続(142-189)の長子で魏の京兆太守・羊秘の妻か。
羊祜が15歳で父を亡くした後、伯母によく仕えた。
蔡氏はいつも羊祜を褒め称え、「羊叔子は諸葛孔明に匹敵する」と言って気に入っていた。

崔氏

さいし

劉琨の妻の姉妹。盧湛の母。

さいじょ

蔡邕の娘。羊続の次男で上黨太守・羊衜の後妻。司馬師の義母にあたる。
羊徽瑜(214-278)、羊承、羊祜の母。蔡琰 と同一人物?
先妻の子・羊発と羊承が病にかかった時、実子を見捨てて養子を看病した賢婦。
夏侯覇が蜀へ亡命した後に没する。

濟陽縣君、穆

さいじょ

崔参の娘。温曹フ弟・温襜の妻。温嶠の母。

蔡夫人

さいふじん

晋の羊衡の母。書道家。
唐の韋続著『墨藪』の九品書に書の評価が残る。
楷書を最も良い上上品に次ぐ上中品で高評価された。

左芬

さふん

字蘭芝。詩人・左思の妹。司馬炎の貴嬪。父は侍御史の左維(王隠晋書)または太原相、弋陽太守の左熹(左棻墓志)
斉国臨淄の人。兄同様、醜い容姿だが文才に優れた詩人。
才女だと聞き知った司馬炎により後宮入りし、秦始七年(272年)に修儀となった際に『離思賦』を作る。
のちに貴嬪となり、容貌のせいで寵愛は受けなかったが、秀でた才徳により礼節をもって炎から接された。
楊艶が亡くなると誄を作り、咸寧二年(276年)に楊芷が炎の皇后となると詔を受けて辞を作る。
万年公主が亡くなると炎は悲しみ、詔を受けて誄を作った。その文章は秀麗だと評価される。
『左貴嬪集』には次の作品があったという。『離思賦』、『相風賦』、『孔雀賦』、『松柏賦』、『泣漚頌賦』、『納皇后頌』、『楊皇后登祚贊』、
『芍藥花頌』、『郁金頌』、『菊花頌』、『神武頌』、『武元皇后誄』、『萬年公主誄』

左貴嬪、左修儀、左蘭芝
左修議(王隱『晉書』)
棻,左貴人(左棻墓志)

さんじょ

山筒の娘。衛玠の後妻。

司馬

しばまい

司馬昭の異母妹。杜預(222—285)の妻。

高陸公主

鍾琰

しょうえん

琰は字あるいは名。名を琰之とも書かれる。黄門郎・鍾徽の娘。太傅・鍾繇の曾孫。鍾会の従孫。
司空・王昶(?-259)の子の王渾の妻。渾の次子・王済の母。他に一女を生む。潁川の人。
幼少時から文章を好み、成長すると才色兼備で歌唱の上手な貴婦人となった。
王渾と共に幼い王済が庭を駆けて行く様子を見ていた時、渾が「生まれてくる子がこうであれば慰められるものだ」と喜んだ。
それに対し鍾琰は「もし私が参軍(王渾の二番目の弟・王淪)に嫁いだなら、生まれる子はこの程度ではありませんでしたよ」と言った。
のちに『遐思賦』と『鶯賦』を作る。

鍾琰之(王氏譜)
鍾夫人

諸葛婉

しょかつえん

諸葛冲の娘。太常・諸葛緒の孫娘。司馬炎の寵姫。琅邪陽都の人。
泰始九年(273年)に美貌をもって後宮入りし、胡芳と同等の寵愛を得た。

諸葛夫人

諸葛太妃

しょかつたいひ

太妃は尊称。諸葛誕の娘。諸葛靚の姉。
司馬懿の五子・司馬伷の妻。伷の次子・司馬澹(?-311)と司馬繇の母。

徐義

じょぎ

賈南風と賈午の乳母。司馬炎の夫人。城陽東武城の人。221年生まれ。
貧しい家柄で、容貌は醜く丈夫な体つきをしていた。
戦乱の際に家族を亡くした後、太原の徐氏に嫁ぎ、徐烈を産む。
甘露三年(公元256年)に賈南風の乳母となり親しくなる。
泰始六年正月に賈南風が太子妃になり、賈南風に付き従って後宮へ入り中才人となる。
恵帝・司馬衷が即位すると良人に昇進し、70歳になると美人へ昇格した。元康八年(298年)、78歳で没した。

徐中才人,徐良人,
徐美人(徐義墓志)

じょじょ

徐邈(171-249)の娘。王浚(206-286)字士治の妻。

辛憲英

しんけんえい

憲英は字。辛毗の娘。辛敞の姉。羊続の末子・羊耽の妻。賢夫人と名高かった。191年生まれ。269年没。
曹爽の参軍だった弟が、司馬懿の政変により両者のどちらに付くべきか相談をもちかけた。
「司馬懿が政権を握るでしょうが、臣下として主君に尽くすしか方法はない」と答え、その通りにすると弟は生き延びた。

任氏

じんし

皇甫謐の叔母。幼い皇甫謐の面倒を看た。
皇甫謐は『帝王世紀』,『高士伝』等の著作を残し、『列女伝』では王異等の後漢末期の女性を記した。

せきし

西晋の司徒・石苞の娘。苞の六子・石崇(249-300)の姉。蘇紹(247-300)の妻。

宣氏

せんし

裴潜の妻。裴秀の継母。裴秀の生母は身分が卑しかった。

臧氏

ぞうし

司馬懿の七子・司馬駿の妻。新野公・司馬歆(?-303)の母。
歆は孝行息子で、母が亡くなると通例以上に礼を尽くして喪に服した。

臧太妃

湛氏

たんし

陶侃(259-334)の母。豫章新淦の人。

段氏

だんし

楊文宗の後妻。楊艶の継母。

趙粲

ちょうさん

充華,脩華は官名。楊艷の母方のおじ・趙虞の娘。天水の人。司馬炎の妃嬪。
楊艷が幼い時に母を亡くした後、趙虞の兄・趙俊の家で養われた。
その恩から楊艷が立后した時、趙俊は官位を与えられ、趙粲は後宮入りして充華となる。
賈南風が太子妃を廃されかかった時、趙粲が弁護して沙汰やみとなった。
最期はかつて救った賈南風により、永康元年(300年)に殺された。

趙充華
趙脩華(晉起居注)

趙氏

ちょうし

楊文宗の先妻。楊艶の母。趙俊と趙虞の姉妹。天水の人。早くに亡くなる。

趙氏

ちょうし

王沈(?-266)の妾。王浚(252-314)の母。
良家の娘だったが家が没落し、沈家に出入りするうちに王浚を産む。

張春華

ちょうしゅんか

張汪の娘。母は山涛の祖父母の姉妹。司馬懿の妻。懿の長子・司馬師、次子・司馬昭の母。
夫が側室を寵愛すると疎遠になる。
病にかかった司馬懿の見舞いに行くと「憎たらしい老婆め」と言い捨てられた。
怒りと恥で、息子を巻き添えに食を断ち自殺しようとすると、司馬懿が謝罪したため未遂に終わる。
のちに司馬懿が人に「老いぼれは死んでも構わない、大事な息子を思ってのことだ」と言い、夫婦仲は険悪だった。

宣穆皇后、宣穆妃
廣平縣君

張夫人

ちょうふじん

司馬懿の側室。梁孝王・司馬肜(?-302)の母。
唐の『晋書』卷38では懿の九子を生む柏夫人の直前に載る。
そのため肜は懿の八子だと見做されやすいが、他の子の排行と生年により第三子があてはまる。

陳氏

ちんし

衛瓘(220-291)の母。衛凱の妻。

杜韡

とい

杜有道と厳憲の娘。杜預の従妹。傅玄の後妻。
淑徳があり傅玄から妻に求められ、母はすぐにその申し出を許した。
傅玄は当時権勢をふるっていた何晏,ケ颺(トウヨウ)と剣呑な仲だったため、周囲の人は二人の結婚を賛成しなかった。
しかし厳憲が何晏らは必ず自滅すると予見したため、そのまま傅玄と結婚した。
その後、何晏らは司馬懿に誅殺される。

柏夫人

はくふじん

司馬懿の愛妾。懿の九子の趙王・司馬倫(?-301)の母。
司馬懿から寵愛を受け、夫に疎まれた張春華が夫婦喧嘩を起こすきっかけとなる。
この騒動があった時期は記述内容により230年以前と思しく、生年は200年から215年の間か。
子の司馬倫はのちに権勢を握り、倫を快く思わない異母兄・司馬幹(232-311)に「白女兒(白女の子)」と呼ばれた。

白女
桓夫人(朱鳳『晋書』)
静姝 〕(電視劇『新三国演義』)

伏夫人

ふくふじん

司馬懿の側室。四人の男子を生む。
懿の四子の汝南文成王・司馬亮(?-291)、懿の五子の琅邪武王・司馬伷(227-283)、
清惠亭侯・司馬京、懿の七子の扶風武王・司馬駿(232-286)の母。
司馬伷は元帝・司馬睿(276-323)の祖父にあたる。

伏太妃

まんじょ

満寵の娘。満偉の妹。司馬昭の弟・司馬幹の妻。

李婉

りえん

字淑文。李豊の娘。賈充の先妻。賈充の長女・賈褒(荃)と次女・賈裕(濬)を産む。
文芸に秀でた才女。『女訓』を残す。李豊が処刑されると賈充と離縁する。
賈充の没後、李婉の娘と郭槐の娘がどちらの母を合葬するかで揉めた。
賈南風が廃皇后となると李婉が賈充の墓に入ることに決まる。
娘の賈褒は司馬昭の次子の斉王・司馬攸(248-283)に嫁いだ。

李淑文、李夫人

梁蘭璧

りょうらんへき

司徒・梁芳の娘。祖父は梁鴻季。司馬炎の子・懷帝司馬熾(284-313)の皇后。安定の人。
光熙元年(306年)に立后する。
永嘉年間(307-313)、永嘉の乱の最中に匈奴に掠奪され、その後の消息は不明。

懷梁皇后,懷梁后,
豫章王妃(臧榮緒『晉書』)

緑珠

りょくしゅ

石崇の愛妾。歌妓。白州博白県の人。
美しく舞に巧みだった。永康元年(300年)、孫秀により石崇一家もろとも殺される。

梁氏

楊艷

ようえん

字瓊之。魏の通事郎・楊文宗の娘。司馬炎の皇后。恵帝・司馬衷の母。
貴人の相があると言われ、司馬昭が息子の妻に選んだ。
炎が司馬衷は後継者に相応しくないと考えると「嫡子は長子がなるもので、賢さで選ぶものではありません」と言って嫡子を変えさせなかった。
秦始年間(265-274)に後宮に入る女性を選別した際、嫉妬心から顔立ちの端正な者を選ばず、背が高くて色白の太った者を選んだ。
炎が美人な卞潘の娘を欲すると、楊艶は「卞氏は三代に渡って魏の皇族でしたから女官の地位では満足しないでしょう」と言って拒否した。
すると炎は絹のとばりで楊艶をさえぎり、その中で自ら気に入った女性に赤い絹を腕に巻いていき、胡芳らを得た。
泰始十年(274年)に病没し、峻平陵に葬られた。

武元皇后、楊瓊之
楊元后

羊徽瑜

ようきゆ

上党太守・羊衜(ヨウドウ)の娘。母は陳留の蔡氏。蔡邕の孫娘。羊祜の実姉。214年生まれ。
司馬師の後妻。泰山南城の人。蔡琰 の姪か娘。
聡明な女性だと評価されたが、后妃伝に詳細は未記載。
呉の孫権の趙姫を称賛した形跡が『世説新語』に残る。
また敦煌写本類書 『励忠節鈔』には顔回等の逸話から得た3種の教訓を残す。
咸寧四年(278年)に亡くなり、峻平陵に合葬された。享年65歳。

景獻皇后、弘訓太后
景陽皇后(裴注『世語』)
獻皇后(勵忠節鈔「貞烈部」)

羊献容

ようけんよう

羊玄之の娘。祖父は尚書右僕射・羊瑾。曾祖父は羊耽。司馬衷の二番目の皇后。
のち前趙の皇帝・劉曜(?-329)の皇后。羊祜と同族。泰山南城の人。
賈南風が処刑された後に皇后につく。
永嘉の乱ののちに劉曜の妻となり、曜が漢昌元年(318年)に皇帝即位した翌年に皇后となる。
曜との間に前趙太子・劉熙,劉襲,劉闡の三子をもうけた。
光初五年(322年)に亡くなり、献文皇后と諡され显平陵に葬られる。

惠皇后、獻文皇后

羊氏

ようし

王粛の妻。泰始三年(267年)に追号される。
泰山の羊一族の出か不明。

蘭陵景侯夫人、平陽靖君

楊芷

ようし

字季蘭。小字男胤。太傅・楊駿の娘。楊艶の従妹。母は高都君・龐氏。司馬炎の二番目の皇后。弘農華陰の人。
病床の楊艶が自分の死後、炎の寵姫・胡芳に皇后の位が移ることを恐れ、次の皇后に推薦した。
咸寧二年(276年)に皇后になる。太康四年(283年)に渤海殤王・司馬恢を生むが二歳で亡くなり、その後に子は生まれなかった。
父没後、謀反を企てたとされて罪に問われ、司馬衷の詔により廃皇后となり庶人と貶称される。
その後、金墉城に監禁され餓死した。享年34歳。在位15年。逆算して258年生まれ291年没。
懐帝・司馬熾が皇帝を称すると「悼」と諡され、峻陽陵に改葬される。

武悼皇后、楊季蘭
峻陽庶人

ようじょ

羊耽の娘。夏侯湛(243-291)の母。夏侯荘の妻。羊徽瑜と羊祜の従姉。
『三国志』巻9引裴注『世語』は羊徽瑜の姉と書くが、羊姉弟とは父が違うため実姉ではない。

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12/12/28r
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