漢魏晋の文人

王宋

おうそう

平虜将軍・劉勲の妻。二十数年夫との間に子ができず、劉勲が山陽の司馬氏を娶ったため離縁される。
家を追い出される時の心情が『劉勲妻王氏雑詩二首』に残る。
『玉台新詠』は本人の作とするが、『芸文類聚』は曹丕の作と伝える。

孔氏

こうし

傅石甫の妻。『隋書』経籍志には後漢傅石甫妻『孔氏集』一巻があったと記載。

皇甫規妻

こうほきつま

『後漢書』列女伝では姓名出自ともに不明とされるが、唐の文献では扶風郡の馬氏と記録される。
唐代、馬氏の行書と隶書は中中品と評価された。
文章と草書を得意とし、夫の代わりに手紙の返書すると受け取った人々はその巧みさを不思議がった。
皇甫規が亡くなった後、美貌を聞き知った董卓が妾にするため財宝を積んで迫ったが拒否する。
董卓が無理強いしようとすると董卓の不徳をなじり、怒った董卓が配下に撲殺させた。
当時の人々は彼女を悼んで肖像画を描き、礼宗と号した。

禮宗
馬夫人
馬礼宗

徐淑

じょしゅく

桓帝劉志(132-168)時の黄門郎・秦嘉字士会の妻。隴西の人。『隋書』経籍志に『徐淑集』一巻があった。
夫の詩『贈婦詩』三首と共に『玉台新詠』に『答秦嘉詩』一首が残る女流詩人。
その他現存する作品は『芸文類聚』巻32『答夫秦嘉書』と『又報嘉書』、『太平御覧』巻441『為誓書與兄弟』。

曹豊生

そうほうせい

班昭(45?-117?)の義妹。曹世叔(名は寿)の妹。
班昭作『女誡』に対し批判する書を作成した才女。その内容は見るべきものがあったと評価される。

昭女妹、曹女叔

唐姫

とうき

少帝・劉弁(176-190)の妃。潁川の人。劉弁が毒死を強要された時、夫の悲歌に対し舞と歌で返し た。
その時の詩句を『昭明文選』巻28李善注では『唐姫詩』、『先秦漢魏晋南北朝詩』漢詩卷7では『唐姫起舞歌』と題される。

弘農王妃

竇玄妻

とうげんつま

平陵の竇玄字叔高の妻。竇玄の容貌が優れていたため、時の皇帝が公主を竇玄の妻にして元いた妻は離縁された。
家を追い出される時の心情を詠み、『旧妻与玄書別』として『芸文類聚』に残る。『古怨歌』とも題される。

馬芝

ばし

馬融(79-166)の末女。袁隗(?-190)の妻馬倫(122-184)の妹。姉と同じく才女と評判だった。
幼い時に親を亡くし、成長してから親を追慕した『申情賦』を作る。生まれは150年~160年代か。

倫妹

班昭

はんしょう

字は恵姫。史学家・班彪(3-54)の娘。班固(32-92)字孟堅と将軍班超(32-102)字仲升の妹。扶風郡安陵の人。
14歳で同郡の曹世叔に嫁いで早くに夫に先立たれ、その後再婚せず貞節を守った。
班固が『漢書』を編纂する途中で亡くなり、兄の遺業を継いで完成させた。
婦人の処世術を説いた『女誡』七篇を著作し、以後女性の教育本として人々に愛読された。
永初七年(113年)に子の曹成字子谷が長垣長になり、陳留に赴任した時に『東征賦』を作る。
その他、『鍼縷賦』、『大雀賦』、『蝉賦』が現存する。

曹大家、班恵姫
班姑(紅楼夢)
班惠班,
班姫(後漢書)
班女(元稹『鄭氏封才人』)

劉蘭芝

りゅうらんし

叙事詩『孔雀東南飛』の主人公。作者とも言われる。廬江郡の人。
13歳で機織をよくし、14歳で裁縫を学び、15歳で箜篌を弾き、16歳で詩書を暗誦し、17歳で同郡の焦仲卿に嫁ぐ。
仲卿の母に疎まれて離縁され、兄が再婚をせまり入水自殺をした。焦仲卿も妻に殉じて亡くなった。

梁嫕

りょうえい

梁竦の娘で章帝(57-88)の恭懐皇后(61-83?)の姉。南陽樊調の妻。安定烏氏の人。梁夫人と号された。
建初八年(83年)に父が冤罪で投獄されて死に、明帝の貴人だった妹二人が父の死に憂慮して亡くなる。
父を陥れた章徳竇皇后が永元九年(97年)に亡くなると、梁嫕は父の冤罪を上書した。
訴えは恭懐后の子の和帝・劉肇(79-105)に聞き入れられ、父は褒親愍侯に追諡され恭懐后は西陵へ改葬された。

梁夫人
梁義妃(續列女傳)

袁氏

えんし

袁術(?-199)の姉妹。楊彪(142-225)字文先の妻。楊修(脩,175-219)字徳祖の母。典軍将軍・楊囂の祖母。
卞后から送られた『與太尉夫人袁書』と、卞后に宛てた『楊太尉夫人袁氏答書』の記録が残っている。

袁夫人、太尉夫人

かじょ

何晏(?-249)字平叔の娘。『楽府詩集』巻60琴曲歌の李勉『琴説』いわく、『烏夜啼』を作曲した。
かつて何晏が投獄された時、二羽の烏が屋根に留まった。
娘は「烏が喜声をあげている。父上はきっと赦免されるでしょう」と言い、琴曲を作った。

阮女

げんじょ

衛尉・阮共の娘。阮共の末子・阮侃字徳如の妹。許允(?-254)の妻。陳留郡尉氏の人。許奇、許猛を産む。
醜いが非常に賢く、様々な事件を予見した。また才芸があり機織や針仕事をよくした。
魏晋随一の才女で、黄帝の妃・嫫母、鍾離春こと無塩君、梁鴻の妻・孟光字徳曜と並び中国四大醜女とされる。
『婦人集』には『阮氏與允書』として許允に送った書が載る。
内容は散逸したが、夫の周囲に降りかかる災いがなぜ起きるのかを述べた文書で、悲哀に満ちていたという。

許允婦、阮新婦
阮氏女
許阮氏
阮家女

高柔妻

こうじゅうつま

高幹(?-206)字元才の子・高柔(174-263)字文恵の妻。姓名不明。高柔は『與婦書』を、妻は『與夫文恵書』を渡し合った。
清の嚴可均が編纂した『全三國文』註釈には、晋にも高柔がおりその妻ではないかと書く。
字世遠の妻は泰山の胡母氏で、夫婦が詩と文書を贈り合ったことが『世説新語』輕詆篇の注に載ると説明する。

才婦、姑

蔡琰

さいえん

字文姫。もとの字は昭姫。蔡邕(サイヨウ)の娘。羊祜(ヨウコ)のおばか母。
初めは衛仲道に嫁ぎ、のちに左賢王・劉豹、帰国後に董祀の妻となる。陳留郡圉県の人。
後漢随一の才女で、卓文君(前175-前121)・班昭(または上官婉儿)・李清照(1084-1155?)と並び中国四大才女とされる。
後漢末の騒乱に遭い匈奴に拉致され、異境の地で12年間住み、曹操によって本国へ帰る。
帰郷の際に実の子二人と離別する苦悩を『悲憤詩』二首と『胡笳十八拍』に詠んだ。
通論では『悲憤詩』は真作、『胡笳十八拍』は後世人による偽作だとされる。
文姫の帰国劇を詠んだ『蔡伯喈女賦』の丁廙と曹丕作が一部現存する。
『隋書』経籍志には後漢董祀妻『蔡文姫集』一巻があったという。

蔡文姫、 蔡明姫
蔡昭姫(列女後傳)
蔡女(紅楼夢)
璞姑(建陽蔡氏源流考)
蔡伯喈女(曹丕,
丁廙作賦)

甄后

しんこう

甄逸の末女。初め袁煕の妻となり、後に曹丕の正室となる。曹叡と東郷公主の母。
幼少から書学を好み、兄に「女学者になるつもりか」と言われた時は古代の婦女も学んでいたと言い返した。
曹氏と袁氏の戦の中、曹丕に見初められ妻となる。 晩年は寵愛を失い、『塘上行』を作詩したと言われる。
『塘上行』の作者は甄后以外にも曹操、曹丕、曹植、あるいは無名の者という説がある。

甄夫人、文昭皇后
長秋宮、 甄妃
、甄、甄

孫二娘

そんじじょう

黄初元年(220年)3月19日、孫二娘,李三娘,李十三娘,陳九娘,衛十五娘,衛十娘,呉□娘らが造像した記録が残る。
同年同月26日には王五娘,張十二娘,馮九娘,馮六娘,李十三娘,朱五娘,馬十二娘らも同様の記録あり。

丁廙妻

ていよくつま

『寡婦賦』を作る。題の寡婦とは阮瑀(?-212)字元瑜の妻だと言われる。
曹丕が早世した阮瑀とその妻子を憐れみ『寡婦賦』を作り、曹丕に合わせて詩作したと思われる。
賦の作者名には異同があり、『初学記』では丁廙(?-220)の兄・丁儀、『文選』注では丁儀妻とする。

孟珠

もうしゅ

魏の丹陽の人。『陽春歌』を作詩したと明の『古今女史』や『名媛彙詩』は記載。
似た内容の詩を南朝宋の鮑照(414-466)の妹・鮑令暉が『丹陽孟珠歌』として詠んだ。

孫仲奇妹

そんちゅうきまい

詳細不明。明の文芸家・梅鼎祚(1549-1615)は呉の時の人だと見做した。
『全三國文』巻75に列女・仲奇妹の作として『臨亡書』を記載された。
底本の『太平御覧』巻717は「孫仲奇妹臨亡書」と書くため、孫仲が妹に臨亡書を寄こしたという読解も度々行われる。

趙母

ちょうぼ

桐郷令・東郡の虞韙(グイ)の妻。潁川の人。娘が一人いる。
才女の名声があり、夫に先立たれると孫権が保護し、後宮入りした。
『列女伝』の注釈をつけ、注は「趙母注」と呼ばれた。賦を作ること数十万の言葉に上り、趙母注ともに現在は散逸。

趙姫(皇甫謐『列女傳』)
虞貞節

王邵之

おうしょうし

高平人の劉柔の妻。『隋書』経籍志には『王邵之集』十巻があったという。
現存する作品は『懐思賦』、『春花賦』、『姜嫄頌』、『啓母涂山頌』、『霊寿杖銘』、『夫誄』の6篇。

王劭之

桓夫人

かんふじん

能書家。出自不明だが晋代の人とされる。
欽定四庫全書中『書苑菁華』巻5では(栢は柏の異体字)と書かれた。

柏夫人

げんこ

阮咸のおば。陳留尉氏の人。『答阮咸書』一篇を残す。阮咸の母が亡くなると、遠方から実家へ帰った。
家には鮮卑族の奴婢がおり、婢は阮咸の間に子(阮孚)をもうけた。

翾風

けんふう

晋の大富豪で石苞(?-272)の子・石崇(249-303)字季倫の愛婢。匈奴より身売りされた。姓不明。250年代の生まれか。
魏末期に10歳で石家に買われて養われた。15歳になると絶世の美女になり美しい声は聞く者の心に響いた。
30歳になると他の年若い側妾が嫉妬を起こして石崇に讒言し、その結果高齢を理由に家を追い出された。
若い時はもてはやされ年齢を重ねると周囲に見放された心情を五言詩に詠み、のちに詩は『怨詩』と呼ばれた。

胡女
翔風(明馮惟訥
『詩記』巻40)

蔡夫人

さいふじん

晋の羊衡の母。書道家。 唐の韋続著『墨藪』の九品書に書の評価が残る。
楷書を最も高評価な上上品に次ぐ上中品に位置づけられた。

左芬

さふん

字蘭芝。詩人・左思の妹。司馬炎の貴嬪。 斉国の人。兄同様、醜い容姿だが文才に優れた詩人。
『太平御覧』巻145の目録『左貴嬪集』には次の作品があったという。
『離思賦』、『相風賦』、『孔雀賦』、『松柏賦』、『涪漚賦』、 『納皇后頌』、『楊皇后登祚』、
『芍藥花頌』、『郁金頌』、『菊花頌』、『神武頌』、四言詩四首、『武元皇后誄』、『萬年公主誄』
その他、『白鳩賦』序文、『德柔頌』、『郁金頌』、『虞舜二妃賛』、『周宣王姜后賛』
『班婕妤賛』、『孟軻母賛』、『狂接與妻賛』、『荆武王夫人鄧曼賛』、『斉杞梁妻賛』
『斉義継母賛』、『魯敬姜賛』、『徳剛賛』、『巣父恵妃賛』、『納楊后賛』を作ったことが記録に残る。
左芬が後宮に入ると左思が『悼離贈妹詩』を作る。『隋書』経籍志には『武帝左九嬪集』四巻があったという。

左蘭芝、左貴嬪
左九嬪、左修儀
左修議(王隱『晉書』)
左棻,
左貴人(左棻墓志)
令妹(悼離贈妹詩)

鍾琰

しょうえん

琰は字あるいは名。名を琰之とも書かれる。黄門郎・鍾徽の娘。太傅・鍾繇の曾孫。
司空・王昶(?-259)の子の王渾(223-297)の妻。渾の次子・王済の母。他に一女を生む。潁川の人。
文章に秀で、『遐思賦』と『鶯賦』を作った。 『隋書』経籍志には晋司徒王惲妻『鍾夫人集』五巻があったという。

鍾琰之(王氏譜)
鍾夫人

蘇伯玉妻

そはくぎょくつま

蜀へ行った夫を長安の地から案じる『盤中詩』を作る。 出自や活躍年代は不明。
『玉台新咏』巻9で西晋の傅玄の後に収録されたことから晋代の人だと見做される。 あるいは漢代の人とも言う。

李婉

りえん

字淑文。李豊(?-254)字安国(宣国)の娘。賈充の先妻。賈充の長女・賈褒(荃)と次女・賈裕 (濬)を産む。
文芸に秀でた才女。『女訓』を残す。李豊が処刑されると賈充と離縁する。
のちに父の罪が許され賈充と交流できるようになり、詩を作り合った様子が『與妻李夫人連句詩三首』に残る。
『隋書』経籍志には晋太宰賈充妻『李扶集』一巻があったという。

李淑文、李夫人
李扶(隋書経籍志)

緑珠

りょくしゅ

石崇の愛妾。歌妓。白州博白県の人。美しく舞に巧みだった。永康元年(300年)、孫秀により石崇一家もろとも殺される。
南朝陳(557-589)の釋智匠撰『古今楽録』は民間の謡曲『懊依歌』を緑珠の作とする。

梁氏、珠妓
金谷妓(唐の李徳裕詩)

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