甄皇后
文昭甄皇后は中山郡無極の人で、明帝(曹叡)の母である。漢の太保・甄邯〔1〕の末裔である。代々二千石の官吏に就き、父の甄逸は上蔡の令であった。后が3歳の時に父は亡くなった。

魏書曰く、甄逸は常山の張氏を娶り、三男五女が生まれた。長男の豫は夭折し、次男の儼は孝廉に挙げられ、大将軍掾,曲梁長となった。三男の堯も孝廉に挙がった。長女は姜、次女は脫、三女は道、四女は栄といい、五女が后である。后は後漢の光和五年(182年)12月丁酉に生まれた。毎夜寝台で(后が)眠る時、家の者は(后に)玉衣をかける者が現れるのを見て常に不思議がった。甄逸が亡くなると(后は)大いに父を慕って哀しみ、親類はますます后に驚いた。のちに人相見の劉良が后と他の兄弟の人相を見て、后を指さして言った、「この娘の高貴さは言い表せないほどです」と。
后は幼少から成人するまで、遊戯を好まかった。8歳の時、屋外で馬に背に立って曲芸をする者がいた。家族と姉たちは皆屋根にのぼって観たが、后だけは行かなかった。姉たちは不思議がって后に(なぜ観ないのか)質問すると、后は答えて言った、「これは女性が見るべきものでしょうか」と。
9歳の時、(后は)書を好み字を見ると覚えるために諸兄に筆と硯を借りようとした。兄が后にこう言った、「お前は針仕事を習ったらどうだ。書を書いて勉強して、女学者にでもなるつもりか」と。后は答えて言う、「昔の賢女には、前の時代の成功と失敗を学ばずに自分を誡めた者はいないと聞いています。書を知らなければ、一体何を見て学べばよいのでしょうか」と。


後に天下は戦争で混乱し、加えて飢饉が起きた。百姓は皆金銀珠玉の宝物を売り、時に后の家は多くの穀物の蓄えがあったので、穀を売り宝物を買い取った。この時、后は10歳余り。母に申して言う、「今、世は乱れてたくさんの財宝を買い取りました。人々に罪はありませんが、多くの財貨は災いを招きます。また、皆飢えて貧しいのです、どうか穀物を親族郷里の者に分け与え、広く仁愛を施してください」と。家の者はこれを良しとし、后の言葉に従った。

魏略曰く、后が14歳の時、兄・儼の喪中で悲しむさまは通常の哭礼の儀を超えるほどだった。寡婦となった兄嫁〔2〕に仕える様子は謙虚で恭しく、兄嫁をいたわって兄の子を養い、慈愛に満ち溢れていた。后の母は厳格な性分で、兄嫁を冷遇することが多かった。后は母を諌めて言う、「兄は不幸にも早世なさいましたが、兄嫁は年が若いながら貞節を守り、遺児を育てていらっしゃいます。道義に則れば兄嫁に接する態度は息子の妻の如く、愛することは娘の如くなさるべきです」と。母は后の言葉に感じ入り涙を流し、ひぐに兄嫁の待遇は后と同じように扱い、両者の関係は親密になった。

【巻5・文昭甄皇后伝】

〔1〕甄邯字子心は前漢初の政治家。孔子の十四代孫の孔光の娘婿だった。
〔2〕同伝中に甄儼の妻は劉氏だと記載され、東郷君に封じられた。

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