馬礼宗
安定郡(甘粛省)の皇甫規(後漢末の名臣、羌族を平定した)の妻は、どこの家の娘かわからない〔1〕。皇甫規が初めの妻に先立たれ、後添いに娶った。この妻は文章を作るのが達者で、草書が上手。時々夫に代わって手紙の返事を書いた。人々はあまりに上手なので不思議がった。
皇甫規が亡くなった時、妻はまだ年が若く美しかった。董卓が相国(宰相)になると(189年のこと)、彼女の評判を聞き妾にしようとした。その結納は二頭立ての幌馬車百台、馬二十匹、奴婢・銭・絹は道にあふれるほど。妻は普段着のまま董卓の門にきて、跪いて許しを願った。その口上は哀れで痛ましい。董卓は小者や侍従に命じ、刀を抜いて取り囲ませた上、こう言った。
「わしの命令は四海も靡かせるほど。たかが女一人に我が命の行なわれないことなどあるものか」
妻は逃げられぬと悟ると、すっくと立って董卓を罵った。
「お前は羌族の生まれで、天下に毒をばらまいてそれでも満足しないと言うのか。私の先祖は代々清い徳で名を馳せ〔2〕、主人の皇甫氏は文武にすぐれた漢の忠臣。お前の親は皇甫氏の小間使いではないか。お前は主君の夫人に無礼を働こうというのか」
董卓はそこで車を庭に引き入れ、妻の頭をくびきに吊るし、鞭と棍棒をかわるがわる打たせた。妻は棒を持った者に言った。
「もっときつくしなさい。早く死なせてくれるのが慈悲というもの」
そのまま車の下に落命した。後の人が肖像を描き、礼宗と号した。

【巻84・皇甫規妻伝】

〔1〕唐の張懐瓘『書断』には、大司農・皇甫規の妻は扶風郡の馬夫人と記載。
〔2〕扶風郡の馬氏で有徳な者には名将・馬援、その娘の明徳皇后が有名。この馬氏の家系だろうか。

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