漢魏晋の女傑

黄貴姑

こうきこ

江夏黄氏の家譜に記録のある女将軍。
弓馬を操り異民族の平定に尽力して王朝を助けた。司馬烈女または大司馬に封じられる。
父を黄歇字光明とする時は西漢初の人物で、父を黄湘字坤望とする時は晋の人物。

黄貴娘、司馬烈女
桂娘

緱玉

こうぎょく

陳留郡外黄の人。父の仇を討つため夫の母の姉妹と兄を殺し、おばが怒って玉を役人へ突きだした。
時の県令・梁配は玉を牢獄に入れ、処断しようと思ったが、 15歳の申屠蟠字子龍が役所に赴き玉を弁護した。
梁配は申屠蟠の主張を受け入れ、玉の刑罰を軽くし、玉は死罪を免れた。
申屠蟠は董卓専横後の都の混乱があった後に74歳で没したため、この仇討ちは130年代に起きたことか。

緱氏女玉(後漢書53)
大女侯玉(後漢紀)

楊敬

ようけい

涪(ふう)の郭孟の妻で、楊文と鄭氏の娘。8歳で父を盛に殺され、 17歳の時に郭孟に嫁いだ。
盛と郭孟は旧知の仲で交流があり、敬は泣いて孟に言った。「盛は凶悪なやつです。
私は父の仇を討てぬことを恥じ、その思いは一日とて忘れたことがありません。
いつか狂気に駆られて(盛を殺し)あなたに災いを招くのではないかと心配です。どうか私を見捨ててください」と。
孟は盛に事情を説明したが、盛は納得せず依然として郭孟の家へ来た。
漢安元年(142年)に盛が孟の家にやってきた時、とうとう楊敬は大杖で盛を打ち殺した。
敬は自殺を図ったが孟が止め、共に逃走。令の双勝は二人を追跡し事情を聞き、大赦があったので罪を許した。
中平四年(187年)に涪令の向遵は楊敬を称えるため図表を立て、表彰した。

敬楊,
梓潼列女,
媛,
嬪(華陽国志)
梓潼烈女(函海)

王異

おうい

益州刺史・趙昂の妻。趙昂は趙顒(チョウギョウ)と同一か。冀県を馬超が襲撃したおり、武装して防戦に参加した。
涼州刺史・韋康が馬超に殺害された後、その仇を取る為に働き、馬超の妻楊氏の信頼を得た。
214年7月に決起し、夫と尹奉と共に祁山の守備について馬超を追い払った。
再度馬超が攻めてきた時も祁山を守り、夏侯淵と張郃の援軍を得て馬超に勝利した。
冀城の有事から曹操軍の救援を得るまでの間、 趙昂は九つの奇策を繰り出し、すべてに王異が関わっていた。

士異(資治通鑑,
三國志集解)
趙異(続後漢書)
王妻(三国演義注)

姜母

きょうぼ

楊阜字義山のおば。姜叙字伯奕の母。楊阜に馬超を倒すことを決心させ、曹操に称賛された賢母。
韋康が殺害され、楊阜が涙ながらに復讐心をおばに打ち明けると姜母は楊阜に賛同した。
楊阜が元韋康配下たち及び郷里の者に呼びかけて馬超を倒す計画を立て、実行時に姜母は歴城にいた。
根城を失い歴城へ入った馬超に対し不義不忠の輩だと面罵し、馬超の手にかかって亡くなる。

趙娥

ちょうが

娥は字。酒泉郡禄福の人・趙安の娘。魏将・龐淯(ホウイク)の母。龐子夏の妻。
同郷の李寿に父を殺され、病で亡くなった弟3人の代わりに李寿を討つことを決意し名刀を買った。
隣家の徐氏の婦は引き留めて言う。「李寿の性分は凶悪で、今は武装した護衛を侍らせています。
いくらあなたに強い志があっても無謀です」と。また郷里の者は女の身で仇討ちは無理だと笑った。
自身を笑う者に趙娥は「必ず李寿の首を取り、この刀を李寿の血で染めてみせます」と言い、襲撃の機会を待った。
光和二年(179年)二月、白昼堂々に李寿を刺し、李寿が抵抗するため殴って気絶させ、その後首を斬って出頭した。
祿福長・尹嘉は趙娥を罰する気になれず、再三趙娥が「法を曲げないでほしい」と訴えたが強制的に家へ帰した。
大赦があって趙娥は無罪となり、涼州刺史周洪、酒泉太守劉班等は趙娥を表彰して碑を作った。

龐娥親
龐娥
龐氏烈婦(傅玄作
『秦女休行』)
龐孝婦(列女後傳)

呉后

ごこう

孫鍾の子・孫堅の正室。呉景(?-203)の姉。孫策,孫権,孫翊,孫匡の母。他に一人の娘を産む。呉 郡の人。
孫策は功曹・魏騰が自分に従わないのを不満に思って捕まえ殺そうとし、 士大夫は孫策を恐れて何もできずにいた。
呉后は井戸に腰かけて孫策に言う。「お前は江南の地を治めるためにまだやるべき事が残っています。
今は賢者を優遇し士をもてなし、過失を忘れて功績を取り立てる時です。
魏功曹は公務の模範であり、お前が今日彼を殺せば明日皆がお前に背くでしょう。
私はお前に災いが降りかかるのを見たくないので、この井戸に身を投げます」と。孫策は驚き、すぐに魏騰を釈放した。
孫策の後を継いだ孫権には軍事と政治の面で手助けすることが多く、非常に役立った。

孫破虜呉夫人
太妃
太夫人
武烈皇后
(呉・三国志)

徐氏

じょし

孫堅の三男・孫翊(184-204)字叔弼の妻。才知と卜占に優れる。
孫翊が辺鴻(洪)に殺害され、その罪を嬀覧と戴員が辺鴻一人に押し付けて殺した。
嬀覧らも孫翊殺害に関わったことを周囲の者は知り、徐氏は孫翊の部下の孫高と傅嬰の協力のもと仇を討った。
事の発端は孫権が嬀覧たちの上司・呉郡太守の盛憲を正当な理由なく殺害したことであり、
徐氏の逸話は孫家の非を嬀覧らに転嫁するための脚色を含む可能性がある。

(建康実録)

徐母

じょぼ

徐琨の母。孫堅の妹。徐真の妻。孫権の正室・徐夫人の祖母。
横江での樊能、于麋らとの戦に息子が参加し、当利口で張英を攻撃する事になった。
徐琨は船が少なかった為に軍を駐屯し舟を増やそうとしたところ、軍中にいた徐母が息子に言う。
「恐らく相手は州府から多くの水軍を得て反撃してくるでしょう。そうなれば我々の勝利は無くなります。
どうして軍を進めないのです。蘆と葦草を刈っていかだを作り、それに乗って水軍を補佐するとよいでしょう」と
徐琨は孫策に母の作戦を伝え、孫策はすぐに言う通りにして軍を進め、 張英を破った。

趙姫

ちょうき

桐郷令・東郡の虞韙(グイ)の妻。潁川の人。娘が一人いる。赤烏六年(243年)の没。
才女と名高く、夫に先立たれた後は孫権に保護され後宮入りした。
孫権が公孫淵討伐を計画すると孫権を諌め、陸遜兄弟の諫言もあって中止になる。

趙母(世説新語)
虞貞節

趙嫗

ちょうおう

ベトナムの女傑。九真郡軍安県の人。結婚をせず、乳房の長さが三尺あり、常に金の靴を履いていた。
呉の赤烏年間(238-251)中、象の頭にまたがり山中において群衆を率いた。
郡県を攻めると陸凱(198-269)字敬風の弟で衡陽督軍都尉・陸胤字敬宗が討伐した。
225年生まれで248年没だとされる。

趙貞娘、趙氏貞
趙夫人
趙妹女子(交趾志)

鄭氏

ていし

後漢末の女賊。姜氏と共に捕まり処刑される。
東平の劉楨が夢を見、その夢は四本足の蛇が門の穴の中にいるものだと占い師・周宣字孔和に告げた。
周宣は国家に関する夢だと鑑定し、女の賊が殺されるだろうと言い当てた。

孫氏

そんし

騎都尉・虞翻(164-233)字仲翔の五男・宜都太守虞忠(?-280)字世方の妻。孫権一族の孫娘。
南康太守・虞潭(263?-341?)字思奥の母。呉郡富春の人。
312年、南康太守となった虞潭が反乱に遭った時、孫氏は私財を投じて兵糧を与え、虞潭は征伐を成し得た。
また蘇峻が乱を起こした時、虞潭は呉興を守っていたので、虞潭の権威を司る符節を借りて蘇峻を征伐した。
その後も家の使用人を息子に従軍させ、佩び玉を換金して軍資金にあてた。
実子を戦に派遣する者があれば虞潭にも同じことをさせ、道義に叶う行ないを取らせた。
国から武昌侯太夫人の位を得、金章紫綬が与えられ、334年に95歳で亡くなる。諡を定夫人。240年生まれ。

武昌侯太夫人
定夫人
太夫人,
大夫人(『虞氏家記』)
孫夫人(古今賢女綉像)
虞定夫人(鈕滔母書)

李秀

りしゅう

寧州刺史・李毅(?-306)の娘。朱提太守・李剣の妹。広漢郡の人。漢嘉太守で新都出身の王載の妻。
寧州が飢饉と疫病で死者十万人に上る中、夷人の反乱が数年続いた。
刺史李毅は守城に徹し晋軍へ救援を要請するが、援軍が来ないまま李毅が病没する。
李秀に才知があり明達さは父に似ていたため、周囲の者は李秀を領寧州事に推薦する。
李秀は兵士を鼓舞して嬰城を固守し、城中の兵糧が尽きると鼠をあぶり雑草を抜いて食べて耐えた。
敵軍の様子を伺い隙をついて出撃し、反乱を鎮圧させた。父の死後三年間は州を治めた。

楊娘、淑賢
明惠夫人(中華德育
故事「女德忠篇」)
鎮靖夫人
鎮靖明惠夫人
忠烈明惠夫人

荀灌 じゅんかん
  襄城郡太守・荀崧(263?-329?)字景猷の末女。潁川郡の人。303年生まれ。
建興三年(315年)、13歳の時に賊の杜曾に居城を包囲され、勇士数十人を率いて脱出し救援を呼んだ。
荀崧の元部下・石覧を訪れて援軍を乞い、また荀崧の手紙を作って南中郎将の周訪に救援を請い、義兄弟にさせた。
周訪はすぐに子の周撫に三千人を与えて石覧と合流させ、ともに荀崧を救援し、賊は逃げて行った。

小女

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