〔1〕楊阜伝では212年のこととするが、正しくは213年。
〔2〕楊阜伝には正月から8月の8か月間に渡る抗戦だったと記載。
〔3〕正しくは隴関か。夏侯淵伝によると、この時夏侯淵が援軍にかけつけようとしたが、到着する前に韋康が降伏してしまい、冀城から200里余り離れた場所で馬超軍の抵抗にあった。その為劣勢となり、現地の異民族の反乱も起きたので夏侯淵軍は撤退した。
〔4〕王異が西城の居た時のことか。
〔5〕春秋時代の斉の政治家。初めは斉の公子糾に仕え、公子小白(桓公)と争って負けたが、友人・鮑叔の進言により小白に登用されて斉に貢献した。
〔6〕春秋時代の秦の宰相。初めは戎国の臣下だったが戎王が自身の進言を聞かず、秦の穆公へ降った。由余は戎の情報を穆公に伝え、穆公が戎国を得るのに大いに貢献した。
〔7〕当時の後漢及び曹操の法令のもとでは人質を見捨てることが奨励されていた。夏侯惇伝によると、夏侯惇が呂布軍の捕虜となった時、部下の韓浩は呂布軍の要請に応じず攻撃を仕掛けた。韓浩は夏侯惇に向かって「国の法律を守るためには仕方がないのです」と泣いて謝り、呂布軍を討った。この事を聞いた曹操は韓浩の行動を称賛し、以後人質をとられても構わず攻撃するよう法令を発した。
〔8〕項橐の呼び名が一般的。7歳にして孔子に師匠として認められた神童だったが12歳の若さで亡くなる。
〔9〕孔子の愛弟子。顔回の呼び名が一般的。その才能を孔子から愛されたが、32歳の若さで亡くなる。
〔10〕演義では趙昂が子の身を案じて迷うのを妻が一喝する演出になっている。史書上は馬超に背く計画を万全に整えた上での会話であり、初めから趙昂は趙月を見捨てることに異論はなかっただろう。
〔11〕夏侯淵伝ではこの時馬超を追い払った援軍は張郃(チョウコウ)の軍。張郃が渭水に到着した時、馬超軍は張郃と戦うことなく逃げ去り、張郃は馬超の置いて行った兵器類を得た。