楊敬
敬楊は(父の)仇討ちを成し遂げ、その勇ましさは節義を実践する士を凌ぐほどである。敬楊は涪(ふう)の郭孟の妻で、楊文の娘である。生まれて間もなく母を失い、8歳で父は○盛〔1〕に殺された。親族は無く、外祖(母方の祖父)の鄭氏を頼っ(て成長し)た。17歳で孟に嫁いだ。孟と盛は旧知の間柄だった。盛はしばしば孟の家にやってきた。敬楊は泣いて孟に説いて云う「盛は凶悪者です。私は不幸せなことに女であり、男兄弟がありません。仇を報いておらぬことを心に恥じ、一日たりとも忘れたことはありません。婦人ゆえの制約はありますが、父子の恩情は深いのです。いつ、狂気に駆られてあなたを禍患に遭わせるのではないかと心配です。どうか愚かな者と見捨ててください」と。
孟は盛に事情を説明したが、盛は納得しなかった。漢安元年(142年)、盛が孟の家にやってきた。敬は大杖で盛を打ち殺した。自殺しようとしたが孟は引き止め、連れだって逃走した。涪令の双勝は追跡したが、事の訳を聞いて罪を許した。中平四年(187年),涪令の向遵はこれを称えるため図表を立てて敬を表彰した。

【華陽国志巻10之11】

〔1〕張澍『蜀典』巻2は「李盛」とする。

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