趙夫人
呉主趙夫人は丞相趙達〔1〕の妹である。画を善くし〔2〕、巧妙並ぶ者なし。よく指間に綵糸〔3〕 をもって織り雲霞龍蛇の錦を作った。大きいものは一尺あまり、小さいものは一寸平方まで作ることができ、宮中ではこれを機絶といった。
孫権は常に魏蜀〔4〕 がいまだ平定できていないことを歎じ、軍事の暇をみては画が得意な者を得て山川地勢、軍陣を描かせたいと思った。
そのため趙達は自分の妹を薦め、孫権は九州山岳の勢を作らせた。夫人が言う、「丹砂と青雘〔5〕 の色は非常に消えやすいので、長く保管することはできません。私は刺繍ができますゆえ、列国の方帛の上に五岳、河海、城邑、軍隊を形作らせましょう」と。完成したものを呉主に差し出し、当時の人はこれを「針絶」と言った。棘といえど刺せば木に猴、雲梯に䲻(トンビ)が飛び、その様は華麗すぎることがなかった。
孫権が昭陽宮にいたとき、暑さがひどく、(夫人は高価な)紫の生糸(絹)でできた帷(カーテン)を外していた。夫人が言う、「これは貴重なものではありません」と。孫権は夫人にその言葉の意味を説明させた。答えて言う、「私は己の能力を存分に発揮したいと思います。下ろした帷から清風が自然と入るようにさせ、(帷の中から)外を見ればはっきりと外の様子が見え、帷の外で侍立する者も涼しくなり、馭風が通るかの如くになりましょう」と。孫権は善しと言った。夫人は(帷を)切り始め、神膠を用いてこれを繋げた。神膠は郁夷国〔6〕 から取れるもので、弓弩の弦が切れた時の接着に使い、百たび切断すると百たび繋げることができた。これらを織って羅縠〔7〕 とし、数ヶ月かけて完成し、裁縫して幔(スクリーン)とした。内側からも外側からもこれを見ると、飄々とした動きは煙のごとく、室内はおのずと涼しくなった。時に孫権は常に戦に身を置くごとにこの幔を持って来ては征幕とした。広げれば大きさは一丈、巻けば枕の中に納まるほどで、当時の人はこれを「絲絶」と言った。
ゆえに呉には「三絶」があり、四海にその妙技に敵う者はなかった。のちに(孫権の)寵愛に貪欲で媚びを売る者は夫人のことを讒言し〔8〕、そのため後宮を追い出されることになった〔9〕 。(夫人は)疑いをかけられ落ちぶれたとはいえ、なおもその素晴らしい技芸の記録は残っている〔10〕。(280年に)呉が滅亡するにあたり、(夫人の)行方はわからなかった〔11〕

【拾遺記巻8・趙夫人伝】

〔1〕 趙達は『三國志』巻63に列伝がある。河南の出身で占術を得意とした呉の文官だが、丞相の位に就いたとは書かれていない。
〔2〕『太平御覧』および『玉台画史』収録の唐の張彦遠『歴代名画記』には「書画(書法と絵画)を善くす」と記載。
〔3〕有色の絹糸。
〔4〕蜀は地方名にある名称で、魏は曹丕が禅譲を受けたのちに開いた王朝名。魏という言葉を使用した点より、これは曹丕の即位した220年以降の出来事だろうか。
〔5〕丹砂は赤い絵の具、青雘は青い絵の具。
〔6〕郁夷は嵎夷を意味し、古代では山東東部の浜海地区のことを指した。
〔7〕薄くて細い絹織物。
〔8〕『三国志』巻50妃嬪伝には、孫権の潘皇后は美人な後宮の者を妬んだと記録。そのため袁術の娘・袁夫人などを誹謗して害することが甚だ多かった。趙夫人もその被害者に含まれるか。
〔9〕同上妃嬪伝には後宮の騒動が散見する。238年の歩夫人没後、孫和の母王夫人は次の皇后に望まれたが孫魯班の讒言により、失意のうちに亡くなった。また242年に孫和が太子になった後、孫権の寵愛を受けた者は皆後宮を追い出されることになり、孫休の母の王夫人は後宮に戻ることなく公安の地で亡くなった。
〔10〕趙姓の呉の才女には『世説新語』賢媛篇注釈に紹介される趙姫がいる。趙姫は243年に没したと記録され、孫権の寵姫が宮中を追われる時期と没年が近い。趙夫人は趙姫を元にして形成した伝承の人物だろうか。
〔11〕呉の滅亡の時まで存命していた可能性を示唆するか。その場合、生年は200年以降か。
吳主趙夫人,丞相達之妹。善畫,巧妙無雙,能於指間以彩絲織雲霞龍蛇之錦,大則盈尺,小則方寸,宮中謂之“機絕”。孫權常歎魏、蜀未夷,軍旅之隙,思得善畫者使圖山川地勢軍陣之像。達乃進其妹。權使寫九州方岳之勢。夫人曰:“丹青之色,甚易歇滅,不可久寶;妾能刺繡,列國方帛之上,寫以五岳河海城邑行陣之形。 ”既成,乃進於吳主,時人謂之“針絕”。雖棘刺木猴,雲梯飛(玄鳥),無過此麗也。權居昭陽宮,倦暑,乃褰紫綃之帷,夫人曰:“此不足貴也。”權使夫人指其意思焉。答曰:“妾欲窮慮盡思,能使下綃帷而清風自入,視外無有蔽礙,列侍者飄然自涼,若馭風而行也。 ”權稱善。夫人乃析片發,以神膠續之。神膠出郁夷國,接弓弩之斷弦,百斷百續也。乃織為羅縠,累月而成,裁為幔,內外視之,飄飄如煙氣輕動,而房內自涼。時權常在軍旅,每以此幔自隨,以為徵幕。舒之則廣縱一丈,捲之則可納於枕中,時人謂之“絲絕”。故吳有“三絕”,四海無儔其妙。後有貪寵求媚者,言夫人幻耀於人主,因而致退黜。雖見疑墜,猶存錄其巧工。吳亡,不知所在。
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