羊徽瑜
景獻羊皇后は諱を徽瑜といい、泰山南城の人である。父の羊衜(ヨウドウ)は上黨太守だった。后の母は陳留の蔡氏で、漢の左中郎将蔡邕(サイヨウ)の娘である。后は聡明かつ鋭敏で、才気と徳行があった。景懐皇后(夏侯徽)が亡くなると、景帝は鎮北将軍の濮陽出身の呉質の娘を娶った。のちに離縁し、后と結婚したが、子は無かった。武帝が禅譲を受けるにあたり、弘訓宮に住んだ。弘訓太后と号した。泰始九年(273年)に蔡氏は済陽県君を追贈され、穆と諡号された。咸ィ四年(278年)に太后は没した。享年65。峻平陵に(司馬師と)合葬された。

【晋書巻31】

献皇后曰く「賢人は些細な善行を見て小さなことだとは言わず、懸命に努力した行ないだと見ます。もし小さな悪事があれば、それを取るに足らないこととは言わず、畏まって改めなくてはいけません」と。

羊皇后曰く「憂い事と楽しい事は実行するのに難しい。努力を怠ってはいけません。もし憂い事があっても悲哀を感じない者は仁徳を損なうし、楽しい事がありながら悦べない者は調和を乱します」

献皇后曰く「財宝や賄貨は皆、虜囚です。財産があると享受するのを免れることはできず、享受すれば吝嗇の心が生まれます」
昔、まさに嫁ぎにゆく娘がいた。その娘の父〔1〕が戒めて言う。『慎んで善き名声を上げてはならない』と。
娘が言う。 『では悪い事をしてよいのですか』と。
父が言う。『善き名声さえ上げてはならないのに、どうして悪いことなどできようか』と。
后がこの話を聞き、こう言った。
「これは良い教訓です。鳥は捕捉網を嫌い、人は己に勝つことを嫌う。どうして(この話が)虚言だと言えましょうか」

【敦煌写本類書 『励忠節鈔』37貞烈部】

〔1〕『世說新語』賢媛篇に同様の話があり、娘を送り出す者は父ではなく母(孫呉の趙姫)である。この逸話に対し羊徽瑜は「これは通俗的ですが世の教えとすべきです」と高く評価した。

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