三国志中呉の女性

えんじょ

袁術(?-199)の子・袁燿の娘。孫権の五男孫奮(?-270)の妻。

かんじょ

甘寧(?-220)の娘。南宋の建炎四年(1127年)七月に甘寧が昭毅武惠霊显王に封じられる。
同時に甘寧の妻の熊氏は順佑夫人に、二子は紹威侯、昭霊侯、娘は柔懿夫人に封じられる。

柔懿夫人

橋氏

きょうし

橋公の娘で美女。廬江郡皖県の人。演義では喬姓で喬国老の娘。
孫策が199年に袁術を降した際に姉妹を獲得し、孫策は姉を、周瑜は妹を娶った。
演義では父が橋玄(109-183)である風に書かれるが、橋玄は梁国睢陽県の人であり本来は別人。
晩年、家財乏しく妾を持つ余裕のない橋玄が父ならば曹操(155-220)と同世代であり、婚姻時40歳を越える。

大橋 小橋

二喬
喬靚 喬婉
喬倩(漢末皖縣縣誌)

ぐじょ

東郡出身で桐郷令の虞韙(グイ)と趙姫の娘。
嫁ぎに行く時、母が「決して良い事をしてはなりません」と忠告し、「では悪い事をしたらよいのですか」と尋ねた。
趙姫は「良い事さえしてはいけないのに、悪い事など尚更いけません」と言い、結婚後の処世術を説いた。
司馬師の皇后・羊徽瑜はこの問答を「昔からあるやり取りとはいえ、世の教えとすべき言葉です」と高評価する。

習氏

しゅうし

李衡の妻。習竺の娘か妹。『襄陽耆舊記』では娘。
『漢晋春秋』,『襄陽耆舊記』の著者・習鑿歯(シュウサクシ)と同族。賢夫人の評判が立つ。

英習(襄陽耆舊記)

しゅぼ

朱然(施然,182-249)の母。朱治(156-224)の姉。 施氏に嫁ぎ、産まれた子を弟の養子にする。
その後朱治は次男・朱才、三男・朱紀、四男・朱緯、五男・朱万才をもうけたが末っ子二人は数歳で夭折した。

しょうまい

蒋琬(ショウエン)の妹。潘濬(?-239)の妻。

諸葛

しょかつじょ

諸葛瑾の娘。諸葛恪(203-253)の姉妹。張承の妻。
張震(?-253年)と孫和の妻・張妃の母。陸抗の妻になる娘を産む。

徐氏

じょし

孫堅の三男・孫翊の妻。才知と卜占に優れる。
凶刃に倒れた夫の仇を討つ。

(建康実録)

徐母

じょぼ

徐琨の母。孫堅の妹。戦の際、子に助言をして勝利させた。

そうじょ

曹操の姪。孫堅の四男・孫匡の妻。孫泰(?-234)を産む。晋の孫秀の祖母。

孫氏

そんし

張承(178-244)字仲嗣の母。張昭(156-236)の妻。孫和の妻・張妃の祖母。
張承を懐妊して舟に乗った際に白蛇が舟に乗りあがり、
家では近所の者が「昨日張さんの家に白鶴が現れた」と言い合っていた。
占い師にこの現象を問うと吉祥であるといい、一家は昇進して繁栄していくだろうと言われた。
張承が生まれた後、張昭は丞相となり輔呉将軍の位に昇った。

孫氏

そんし

孫権一族の娘。周瑜(175-210)の次男・周胤に嫁ぐ。

宗女

そんし

孫権の姉。曲阿の弘咨(コウシ)の妻。

孫姉

そんし

孫権の姉。孫権の乳母・陳氏の娘か。または陳氏に嫁いで娘を生んだか、孫堅の妾の連れ子か。
潘濬の子で潘翥(ハンショ)の弟・潘祕(ハンヒツ)の妻あるいは妻の母。

陳氏女or孫氏or陳氏

従女

そんじゅうじょ

孫権の姪。顧氏に嫁ぐ。顧雍の甥・顧裕字季則の妻か。

そんじょ

孫権の従兄・孫輔の娘。駱統の妻。

そんじょ

孫策(175-200)の娘。朱治(156-224)の子で朱然(182-249)の弟・朱紀に嫁ぐ。

朱夫人

そんじょ

孫策の娘。顧雍(168-243)の長男・顧邵(185?-217?)に嫁ぐ。

顧夫人

そんじょ

孫策の娘。陸遜(182-245)の妻。遜の次男・陸抗(226-274)の母。
短命の者が多い孫家には珍しく最低でも53歳以上生きた。
諸葛恪(203-253)の処刑に伴い、陸抗が張承の娘と離縁したのち、孫・陸景(250-280)を育てる。

陸夫人

そんじょ

孫和と張妃の娘。陸景(249-280)の妻。孫晧の異母妹。
陸景の母と張妃は張承の娘であり、両者は張昭の外孫同士だった。

そんじょ

孫静の孫・孫恭の娘。孫峻(219-256)の妹。朱拠(194-250)の次男・朱損の妻。

そんじょ

孫静の四子・孫奐(195-234)の娘。呂範(?-228)の次子・呂據(?-256)に嫁ぐ。孫壹(?-222)の妹。

そんじょ

孫奐の娘。滕胤(?-256)に嫁ぐ。孫壹の妹。

中女

そんちゅうじょ

孫権の次女。劉纂に嫁ぎ、早世する。没後は孫魯育(?-255)が劉纂の正室になった。

孫魯育

そんろいく

字小虎。孫権の娘。孫魯班の実妹。孫休(235-264)の姉。朱拠(194-250)の妻。
のちに劉纂の後妻になる。冤罪で255年に処刑される。孫権の三女?

孫小虎、朱公主、古三女

孫魯班

そんろはん

字大虎。孫権と歩夫人の娘。全琮(198-249)の妻。
公主の立場を利用し、父の側室から実妹に至るまであらゆる者を陥れた毒婦。
目的の多くは母・歩夫人を皇后にするためだったか。のちに豫章へ流刑となった。

孫大虎、全公主

張氏

ちょうし

張温の姉妹二人。みな貞淑であったが、張温が失脚した際に奴婢となる。

ちょうじょ

張雅の娘。何雄の妻。

ちょうじょ

張承の娘。陸抗の妻。陸景の母。諸葛瑾の外孫娘。諸葛恪の姪。
253年に諸葛恪が処刑された際に陸抗と離縁した。

ちょうじょ

占い師・趙達の娘。趙達没後、孫権が趙達の占術の書が残っていると聞いて娘に問いただし、
探し回ったが見つからず、趙達の占術は失伝した。

中妹

ちょうちゅうまい

張温のまん中の妹。顧承の妻。 張温が失脚した際に姉妹が奴婢となるが、特別に再婚を認められた。
その後、毒を飲んで自殺し、人々から称賛された。

陳氏

ちんし

孫権の乳母。 『呉書』潘濬伝にある「翥弟祕,權以姉陳氏女妻之」の陳氏か。
赤烏年間中(238-251)孫権により住居が建てられ、通元寺と称した。
のちに唐の皇帝が開元寺と改名し、現在の名称は報恩寺。
『三國志補注』引『鼎録』には孫権が乳母のために廟を建てた際に豹尾鼎という鼎も作ったと記録される。

燕国夫人

翟素

てきそ

賊に身を汚されそうになった時、自決した貞女。侍女の青もまた自殺した。会稽郡永寧県の人。

とうじょ

滕胤の娘。呉景の孫・呉纂の妻。

とうじょ

滕胤の娘。諸葛恪(203-253)の次男・諸葛竦(?-253)の妻。

范姫

はんき

広陵の范慎の娘。父は呉の太尉・范慎(206?-274)字孝敬か。18歳の時に孫奇(?-250)に嫁ぐ。232年生まれか。
結婚して一年ほどで孫奇が孫覇の刑死に連座して死に、家族が実家へ帰らせようとしたが拒んだ。
迎えの者が父の言い付けだからと迫ると范姫は刀で鼻と耳を切り再婚をしない意志を見せた。

はんし

孫権の潘后(?-252)の姉。罪を犯した父に連座し、妹とともに織室で奴婢として働いていた。
妹が孫権に並はずれた容姿だと見込まれ高位につくと、織室から出される。
赤烏十三年(250年)に孫亮が太子になると妹の要請で結婚を許されて譚紹に嫁ぎ、
 建興元年(252年)に孫亮が即位すると夫は騎都尉に任ぜられ兵を授かった。
太平三年(258年)に孫亮が廃位され、譚紹とその家族は原籍地の廬陵へ移った。

はんじょ

潘濬の娘。孫権の次男・孫慮(213-232)の妻。子がないままに夫が早世する。

孟母

もうぼ

孟宗(孟仁)の母。出世できない事を嘆く子を励ましたり、忠言を述べたりした賢母。

熊氏

ゆうし

甘寧の妻。南宋の時代に時の皇帝より一家が追封される。

順佑夫人

兪姑

ゆこ

孫韶(188-241)の伯父で孫桓(197-?)の父・孫河(?-204)のおば。
孫堅一族の孫河は一時期おばのため兪氏の養子になっていたが、のちに孫姓に戻った。

孫氏

らくし

駱統(198-228)の姉。駱俊の娘。揚州会稽郡鳥傷の人。
駱統が8歳の時に実母と離別し、郷里で飢饉が起きた頃に夫を亡くして帰省する。
駱統が飢餓に苦しむ民を哀れむのを知り、弟に援助した賢姉。駱俊の正室の娘?

駱母

らくぼ

駱統の義母。駱俊の正室。205年に駱統の実母が魏の太尉・華歆(157-231)の側妾になった後、駱統を育てる。
飢饉で食糧難に陥った民を憂う駱統に同調し、人々に食料を分け与えることを許す。駱統の姉の生母?。

陸鬱生

りくうっせい

陸績(188-219)の娘。陸績が鬱林太守の時に生まれる。13歳で張白に嫁ぐが早くに先立たれた。
以後、縁談があっても再婚せず貞操を守り続けた貞婦。陸遜の姉妹の子・姚信がその行ないを称賛した。

義姑(姚信集)

陸氏

りくし

陸康(126-195)の娘。陸績の姉妹。顧雍(168-243)の妻。おそらく陸績は弟。
顧邵(185?-217?)の伝記には「舅陸績」と書かれるため、顧邵の実母か。

陸氏

りくし

陸遜(183-245)と陸瑁の姉妹。顧邵(185?-217?)の妻。
顧承の伝記には「舅陸瑁」と書かれるため、顧承の実母か。

陸氏

りくし

陸遜と陸瑁の姉妹。呉興出身の姚信の母。

りじょ

孫晧の少府・李勖(?-270)の娘。孫皓の寵臣・何定が李勖の娘を子の妻にしたいと申し出たが李勖は拒んだ。
縁談を断られた事を何定は恨み、李勖一家は刑死になった。

りょし

呂蒙(178-219)の姉。孫策の武将・鄭当の妻。

りょぼ

呂蒙の母。甘寧が呂蒙との約束を破った際、怒る呂蒙をなだめた。

劉氏

りゅうし

大司馬・呂範(?-228)字子衡の妻。富豪の娘。汝南細陽の人。呂範の次男・呂據(?-256)字世議の母か。
呂範が若い頃、同郷の劉家が富んでいて娘が美しいと聞いて妻に求めた所、劉氏の母は嫌がった。
しかし父は風貌の立派な呂範を見て「呂子衡が貧乏のままで終わる人ではない」と予測して結婚を許した。

柳朱

りゅうしゅ

生涯再婚をしなかった貞婦。会稽郡松陽県の人。

りゅうじょ

劉繇(156-197)字正礼の長男・劉基(184-232)字敬輿の娘。青州東莱郡牟平の人。
孫権の四男・孫覇(?-250)の妻。

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