孫呉后妃
孫権夫人 孫登夫人 孫和夫人 孫休夫人 孫亮夫人 孫晧夫人

呉后

ごこう

孫鍾の子・孫堅の正室。呉景(?-203)の姉。孫策,孫権,孫翊,孫匡と一女の母。呉郡の人。
早くに両親を亡くし、親戚のいる錢唐に移り住んだ時に 才色兼備の評判を聞いた孫堅に求婚される。
家の者はずる賢く凶暴な孫堅を嫌い、申し出を断ろうとするが呉后は引き留めて言う、
「一人の娘のために一族に災いを招いてはいけません。例え私が不幸な目に遭っても、それが天命です」と。
夫の死後、息子たちに多大な助言をして呉の基盤を築かせた。建安七年(202年)または建安十二年に亡くなる。
黄武八年(229年)に孫権は皇帝を自称し、母に武烈皇后と追諡した。

孫破虜呉夫人
太妃、太夫人、武烈皇后
賢妃(謝承『三夫人箴』)

孫堅妾

そんけんめかけ

孫堅(155-191)の妾。孫朗の母。
孫朗が孫権により孫姓を剥奪され、代わりに丁姓を名乗ったため実母は丁氏だったか。

丁氏

謝夫人

しゃふじん

謝煚(シャケイ)の娘。謝承の姉。孫権の初めの正室。会稽山陰の人。
孫権の母が息子の妻に選び、孫権の寵愛を得た。
のちに孫権が徐夫人を正室にして謝夫人をその下につかせようとしたが拒み、失意のうちに亡くなる。

謝妃(太平御覧)
賢妃(謝承『三夫人箴』)

徐夫人

じょふじん

孫堅の妹の子・徐琨(ジョコン)の娘。初めは陸康(126-195)の孫・陸尚に嫁ぐ。
太子・孫登(209-241)の養母。陸尚没後に孫権と結婚し長年正室の座につく。
過去に孫策が陸康を襲撃し陸康一族を衰退させた確執があるせいか、孫権との仲は悪かった。
家柄の権威を必要とされなくなると、嫉妬深い性格だと理由を付けて離縁され呉郡に住まいを移した。
義理の子・孫登には慕われる。孫登が歩夫人から贈り物を貰っても辞退はせず拝礼して受け取るだけだったが、
徐夫人の使者が衣服を贈ると必ず沐浴してから着用した。

徐妃(太平御覧)
徐后(嘉靖壬午本)

歩夫人

ほふじん

孫権の側室。孫魯班と魯育(?-255)の母。魯班は悪名高かった。歩隲の同族。238年に亡くなり、 皇后と追号される。
家柄は低かったが孫権の寵愛を受け、正室・徐夫人と十数年に渡る皇后争いをした。
史書では品行方正な夫人に書かれるが、毒婦賈南風を生んだ郭槐の素行や
孫権に疎まれた徐夫人を嫉妬深いと書く史書の性質を考慮するに、粉飾の可能性がある。

歩皇后
練師(建康実録)

王夫人

おうふじん

琅邪の出身。王盧九の娘。孫権の夫人。三男・孫和(224-253)の母。
孫魯班に憎まれて讒言を受け、失意のうちに亡くなる。死後、孫の孫晧から皇后に追号される。

大懿皇后、王后(太平御覧)

王夫人

おうふじん

南陽の出身。孫権の夫人。六男・孫休(235-264)の母。
孫和が皇太子になると宮中を追い出される。死後、孫休から皇后に追号される。

敬懐皇后、王后(太平御覧)

潘皇后

はんこうごう

孫権の皇后。孫亮(243-260)字子明の母。唯一生存中に皇后の座についた孫権の夫人。
父の罪に連座し、姉とともに織室で働いていたが孫権に並みならぬ容姿を見出されて夫人になる。
太元元年(251年)夏に立后する。性格が悪いという理由から官女の怨みを買い、252年に殺される。
呉志は一貫して潘后を悪女に書く一方で『拾遺記』ではその人柄を非難する語句や逸話はなく、
そのため潘后は悪女孫魯班の支持を得ていた影響で悪名を被った可能性がある。

潘夫人、神女(拾遺記)

袁夫人

えんふじん

袁術の娘。孫権の夫人。節度と品行を重んじた。 子はなく、孫権が他の側妾の子を養わせたものの皆夭折した。
歩夫人没後、孫権が立后しようとしたが子が居ないことを理由に固く辞退する。
のちに潘皇后が美貌ある者を妬み、潘后が死没するまで袁夫人らを讒言して傷つけたという。

、袁袁姫

そんぼ

孫権の長子・孫登の母。身分が低かった事以外は詳細不明。

孫姫

謝姫

しゃき

姫は官名。孫権の側室。孫権の四男・孫覇(?-250)の母。孫壹の祖母。
元興元年(264年)に孫晧が皇帝になると宮中を追い出され、
霸の二子孫基、孫壹と共に会稽郡烏傷へ移住した。

仲姫

ちゅうき

姫は官名。孫権の五男・孫奮(?-270)字子揚(子陽)の母。没後、豫章に葬られる。

趙夫人

ちょうふじん

孫権の夫人。河南出身の趙達の妹。書画と刺繍を得意とした。『拾遺記』に載る。
指で糸を紡ぐ技は機絶、地図を刺繍した技は針絶、 膠で糸と髪を繋げて帳を作る技は糸絶と称賛された。
虞韙(グイ)の妻・趙姫は同じ人物、あるいは元となった人物か。

趙姫

翟妃

てきひ

孫権の妃。海寧市長安に墓がある。『海寧州志稿』に記載。
墓は翟墩、あるいは翟妃廟とも呼ばれる。

呉王権妃

芮妃

ぜいひ

孫権の長子・孫登(209-241)の妻。芮玄字文表の娘。丹楊の人。
孫権が孫登の嫁捜しをしていたところ、群臣の勧めで孫登の妃になる。

淑媛

周妃

しゅうひ

周瑜(175-210)の娘。孫権の長子・孫登の妻。黄武四年(225年)に結婚する。
芮氏とどちらが先に正妃になったか不明。

(『江西吉安周氏族譜』)

張妃

ちょうひ

張昭の長男・張承(178-244)の娘。孫権の三男・孫和(224-253)の正室。
夫が死を命じられた際、夫とは苦楽を共にすべきだと言って自殺する。

何姫

かき

姫は官名。何遂の娘。孫権の三男・孫和の妾。孫晧(242-285)の母。丹楊郡句容の人。
孫権に見出されて孫和に嫁ぐ。孫和が亡くなった後、遺児を育てるため生き残った。
のちに孫晧が皇帝となり何一族は権勢をふるい、民間での評判は悪かった。

昭献皇后、升平宮
何太后(太平御覧)

鄧夫人

とうふじん

孫和の寵姫。孫和が誤って夫人の頬を傷つけ、自ら傷口をなめた後に医者に指示して治療させた。
治療薬は白カワウソの骨髄と玉屑と琥珀を混ぜ合わせた塗り薬で、孫和は百金で購入した。
薬を塗ると琥珀の赤い点が紅をさしたように夫人を美しく見せたため、
孫和の寵愛を得たい諸姫はみな紅色の顔料を頬に塗った。『拾遺記』に載る。

朱皇后

しゅこうごう

朱拠(194-250)と孫魯育(?-255)の娘。孫権の六男・孫休(235-264)の皇后。
孫休は臨終の際に長男・孫ワン(雨+单)を次の後継者にする意思を言い残す。
しかし丞相・濮陽興(?-264)と左将軍・張布(?-264)が朱后に孫晧を後継者にするよう説得し、
「社稷を安定させる為なら」と言って朱后は承諾する。
元興元年(264年)九月、孫晧に太后の位から貶められ景皇后となる。同年十一月に興と布は孫晧に誅殺された。
翌年七月に孫晧に殺害される。孫休の四子は呉の小城に送られ、長男・豫章王と次男・汝南王も殺された。

朱皇太后、朱妃、景皇后
朱后(太平御覧)、安定宫
佩蘭(香艷叢書中
『老狐談歷代麗人記』)

全皇后

ぜんこうごう

全尚(?-258)の娘。孫権の七男・孫亮(243-260)の皇后。従祖母の孫魯班に愛される。
赤烏十三年(250年)に孫和が太子を廃され、孫亮が太子となり太子妃になった。
太元二年(252年)正月に立后し、永寧年間中(301-302)に亡くなる。

恵解、全妃

朝姝

ちょうしゅ

孫権の末子・孫亮の寵姫。寵姫4人はそれぞれ自身の名のついたお香を所有した。

麗居

れいきょ

孫権の末子・孫亮の寵姫。

洛珍

らくちん

孫権の末子・孫亮の寵姫。玉雲という名の櫛を持っていた。

洛宝

潔華

けつか

孫権の末子・孫亮の寵姫。黄金の尺を持っていた。

滕皇后

とうこうごう

五官中郎・滕牧(滕密,?-266?)の娘。孫晧の皇后。太常・滕胤と同族。北海郡劇県の人。
孫晧が烏程侯になった永安元年(258年)ごろに妃になり、元興元年(264年)七月に孫晧が即位し、皇后となる。
晧の寵愛を失い嫌われつつも、何姫の取り成しと占術上の判断から皇后の位を保った。
以後、何姫へのご機嫌伺いを欠かさなかったが、皇后と同じ璽綬を持つ晧の愛妾が多く、形だけの皇后だった。
呉が晋に降伏すると孫晧に従い洛陽へ移り住んだ。

芳蘭(建康実録)
滕妃

王夫人

おうふじん

孫晧の夫人。建衡二年(270年)に亡くなる。
孫晧は夫人の死を一日中悲しみ、数ヶ月外出しなかったため民間では孫晧が亡くなったという誤報が流れた。

王左夫人

張美人

ちょうびじん

美人は官名。張布(?-264)の次女。
容姿の美しさゆえに孫晧の寵姫となる。
孫晧に父を殺された怨み言を述べると、怒った孫晧により殺された。

張小女
芙蓉(三國殤-魏殤)

張夫人

ちょうふじん

張布の長女。初めは馮朝の子・馮純に嫁ぎ、のち孫晧の左夫人となる。
張美人の容貌を懐かしく思った孫晧により、無理に馮純と離縁させられる。
没するまで孫晧の寵愛を受け、死後の葬儀は盛大だった。

張大女、左夫人
艷荷(三國殤-魏殤)

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