詩文中の女性

郭季妃

かくきひ

詳細不明。幷州西河郡の人と思しい。出典は『西河圜陽郭季妃椁銘』別名『郭季妃門扉石刻』
陜北、晋西地方の漢代の郭氏の墓には郭仲理、郭稚文、郭氏夫人などが発見されており
郭氏は当時の豪族だったと言われる。

黄氏

こうし

胡広(91-172)字伯始と康字仲始の母。交趾督尉・胡寵(73-150)の妻。
黄列嬴の姉。早世する。出典は蔡邕の『交趾都尉胡府君夫人黄氏神誥』

黄君之姉

黄列嬴

こうれついん

列嬴は字。胡広の継母。胡寵の後妻。高祖父は汝南太守、曾祖父は延城大尹、祖父は番禺令、父は主薄。
建寧二年(169年)に91歳で太傅府にて亡くなり、蔡邕が『交趾都尉胡府君夫人黄氏神誥』を作る。
他、済陽の人々23名が碑を著し神誥とした。

黄季女

崔君夫人

さいくんふじん

姓名不明。済北相・崔瑗(78-143)字子玉の妻か。
延熹四年(161年)に亡くなり、蔡邕が『濟北相崔君夫人誄』を作る。

曹貴人

そうきじん

曹操の娘。献帝劉協の夫人。卞后が娘を心配し、曹植に命じて曹植の妹二人を思う『叙愁賦』を作った。
序文中に劉協のことを「故漢皇帝」と書く上に賦の内容は哀愁を感じさせる悲歌であり、
成立時期は曹操の娘二人が献帝へ嫁いだ建安十八年(213年)でなく曹丕が禅譲を迫った後か。
皇后になった娘には触れられず、この二女が最終的に献帝に嫁いだ三人の娘のうち誰を指すか不明。

曹桃婓

そうとうひ

曹全字景宗(または景完)の長女。敦煌效谷の人。出典は『曹全碑』別名を『曹景宗碑』,『漢郃陽令曹全碑』
張角が黄巾党を率いて各地に戦乱を起こした頃、郃陽令の曹全のもとに多数の怪我人や盲人が集まった。
桃婓が他の薬師と共に七首薬,神明膏を調合して多くの傷病者を治療し、曹全の名声が上がったという。
曹全を顕彰する碑は中平二年(185年)十月に建てられた。
「大女」を成人女性の意味に捉えて桃婓を全のもとへ集まった盲目女性の名と読解する場合もあるが、
一介の病人の名を記録する意義がないためここでは全の娘として解釈する。

大女桃婓

章顯章

しょうけんしょう

顯章は字。編県旧族の章氏の長女。永初三年(109年)に15歳で胡広に嫁ぐ。
整、億、寧、碩を生み長男と次男は成人前に亡くなり、三男四男も親より早く亡くなった。
子に先立たれた悲しみで77歳の時に危篤になり、建寧三年(170年)に亡くなった。
蔡邕が『太傅安樂侯胡公夫人靈表』を作る。元女(長女)金盈が母を追慕して頌を作ったという。

章長子、太夫人、皇姑

趙永姜

ちょうえいきょう

永姜は字。胡広の三男・胡寧の妻。中平四年(187年)に58歳で亡くなる。130年生まれ。
蔡邕が『議郎胡公夫人哀讚』を作る。

議郎夫人

李夫人

りふじん

詳細不明。
「漢廿八将佐命功苗東藩琴亭国李夫人霊第之門」と書かれた墓門が現存する。

漢琴亭国李夫人

おうじょ

王朗(?-228)の娘。王粛(194-256)の姉妹。
兄弟一人と同時期に早世する。王朗が許靖(?-222)字文休に宛てた手紙に記載される。

絳樹

こうじゅ

魏の女官。曹丕が繁欽(?-218)に与えた『答繁欽書』に名前が残る。舞を得意とした。

秦女休

しんじょきゅう

魏の詩人・左延年の楽府詩『秦女休行』の主人公。 14,5歳にして家族の仇を討つ。
殺人の罪で投獄され町中で処刑されかかるが、すんでのことで大赦があり刑死を免れた。
女休の原型は父の仇を討った後漢の緱玉(侯玉)あるいは趙娥だと言われる。
のちに西晋の傅玄、唐の李白が同題で詩作する。

曹金瓠

そうきんこ

曹植の長女。早死し、曹植が哀悼詩『金瓠哀辞』を残す。

曹行女

そうこうじょ

曹植の娘。早死し、曹植が哀悼詩『行女哀辞』を残す。のちに「行女」は次女を意味するようになった。

宋臈

そうろう

魏の女官。曹丕が繁欽(?-218)に与えた『答繁欽書』に名前が残る。清歌を得意とした。

蘇来卿

そらいきょう

曹植の『精微篇』に登場する。来卿は字。関東の賢女。史書に記録なし。
自ら字を来卿と名乗り、壮年(20歳前後?)で父の仇をとり、亡くなったことで名声を得たという。

蘇子卿(李白『東海有勇婦』)

孫鎖

そんさ

守宮士・孫世の娘。9歳ながら歌舞に秀で、成人したら側室にしたいと曹丕が『答繁欽書』の中で述べた。
歌舞の技術について曹丕は「絳樹の舞、宋臈の歌ほど上手くはない」と評価した。

宓妃

ふくひ

洛水の女神で伏羲の娘。『洛神賦』の主人公。黄初三年(222年)に曹植が洛川に立ち寄った時に作った賦。
『昭明文選』の李善註は元の題名を『感甄賦』とし、曹植が甄后に恋慕していた話が書かれる。
この逸話から端を発してか、甄后は甄宓あるいは甄洛と民間で呼ばれるようになった。
また宓妃自身を甄后の姓をもって呼ぶ文芸作品も現れた。

洛神、洛女、宓妃
甄女(明何景明『結腸賦』)
甄神(明陳汝元『金蓮記』)

龐烈女

ほうれつじょ

酒泉の人・趙君安の娘。魏将・龐淯(ホウイク)の母。龐子夏の妻。
同郷の李寿に父を殺され、仇を討った逸話を傅玄(217-278)が『秦女休行』と題して詠んだ。

龐娥親、趙娥
龐氏烈婦(『秦女休行』)

盧女

ろじょ

『盧女曲』の主人公。曹操の代の女官。将軍陰昇の姉。『三国志補注』引『樂府解題』では将軍陰叔の子。
7歳で後宮に入り、琴をよく弾いた。曹叡が崩じた後、後宮を出て尹更生に嫁ぐ。
梁の簡文帝『妾薄命』 は盧女の婚期の遅さを憂い、盛唐詩人崔顥(?-754)は宮中の華やかな生活を詠む。

盧姫(『妾薄命』)
陰盧女

きょこ

蜀の許靖(?-223)字文休の伯母。風土病で亡くなる。許靖が曹操に宛てた手紙に載る。

三女

さんじょ

孫権の第三女。清の兪樾(1821-1907)が『三女堆』の題名で律詩を詠んだ。序文及び
『咸淳臨安志』と『海寧州志稿』には海寧長安鎮覚皇寺の後ろに呉大帝の三女の墓があると記載。
墓は『古三女堆』と呼ばれ、正式名称を『長安畫像石墓』として中国の重要文化財に認定された。
通説では孫魯班の妹・孫魯育の墓だとされるが特定できる埋蔵品がないため真相不明。

そんまい

詳細不明。明の文芸家・梅鼎祚(1549-1615)は呉の時の人だと見做した。
『太平御覧』巻717の「孫仲奇妹臨亡書」に載る。
兄は『太平御覧』巻241引く周昭(?-261?)字恭遠の『贈孫奇詩序』にある武騎都尉・孫奇字仲容か。

仲奇妹(全三國文巻75)

りくこ

陸雲(262-303)字士龍のおば。陸抗(226-274)の姉妹。陸遜(183-245)の娘。
永寧二年(302年) 夏以降の陸雲『歳暮賦』に、都へ赴任して6年経つ間に没した姑と姉を想う句がある。
没年は300年前後。卒年から考えるに陸抗の妹か。

仁姑(歳暮賦)

寇夫人

こうふじん

崔琰(163?-216)字季珪の『大将軍夫人寇氏誄』に詠まれた。
作者は初め袁紹配下であり、大将軍とは197年から202年まで就任した袁紹のことか。
袁紹の三男・袁尚を後継者にさせたがった劉氏は継室で、袁譚と袁煕は前妻・冠氏または妾の子か。

おうじょ

潘岳(247-300)が『京陵女公子王氏哀辞』を作る。京陵公・王惲(223-297)の娘か。

環夫人

かんふじん

富春の孫彦の妻。『鈕滔母與虞定夫人薦環夫人書』に載る。
松陽令の鈕滔の母・孫瓊がその貞節を称えた。

邢夫人

けいふじん

潘岳が『邢夫人誄』を作る。詳細不明。時の皇帝の妃嬪か、士大夫または縁者の夫人か。
『文選』中『恨賦』の註釈に「臨命相決,交腕握手」とだけ残る。

公孫夫人

こうそんふじん

『滔鈕母孫氏公孫夫人序贊』に載る。会稽郡剡の人。
鈕滔母・孫瓊がその賢徳を称えた。

碩媛

皇女

こうじょ

潘岳が『皇女誄』を作る。司馬一族の公主と思しい。
哀献皇女と諡された、司馬衷と賈南風の娘・司馬女彦か。

胡母夫人

こぼふじん

魏の孫資(?-251)の孫で孫宏の子・孫楚(?-293)字子荊の妻。孫楚が『胡母夫人哀辞』を作る。
また、『除婦服詩』の婦も胡母氏のことを指すと『世説新語』注引く『孫楚集』に載る。

英媛(胡母夫人哀辭)

左紈素

さがんそ

紈素は小字。意味は白く細い絹。詩人・左思(250-305)字太冲の娘。『嬌女詩』の主人公。姉の字は恵芳。
娘が色白で可愛らしく、利発な様子を詩に詠んだ親バカ詩作品。左思自身は醜男で有名だった。

嬌女、左媛(左芬墓志)

しゃし

陸雲(262-303)作『答車茂安書』に触れられる。車永字茂安の姉。
文中に車永の甥を貿阜令に就く石季甫としており、おそらくその母。
車永が雲に送った『答陸士龍書』ともに、季甫が左遷を受けて姉が号泣する様が書かれた。
貿阜令の赴任地は不明だが呉の句章のあたりで、疫病が流行り猛毒を持つ虱のいる地域だったという。

賢姉

周夫人

しゅうふじん

陸機(261-303)作『為周夫人贈車騎』の題名の夫人。出自不明。
他の陸機作に『贈従兄車騎』があり李善注引く『五言集』は陸子光(陸曄,261-334)を指すと書く。
両題の車騎将軍が同一であれば周夫人は曄の妻になるが、 曄は没後に車騎大将軍を追贈されている。
陸機存命中に車騎将軍には就いていないため陸曄以外の某車騎の妻だと思われる。

鍾夫人

しょうふじん

王沈(?-266)字処道の作『鍾夫人序徳頌』の題名の夫人。
『文選』顔延之『宋郊祀歌』の注釈に『済蒙天假,星駆省疾』とだけ残る。
王沈の従兄弟・王惲(223-297)の妻の鍾琰のことか。

任澤蘭

じんたくらん

楽安の任護字子咸の娘。潘岳の『為任子咸妻作孤女澤蘭哀辞』に2歳と数ヶ月で亡くなったことが詠まれる。

ていじょ

鄭袤(189-273)の長男・鄭默(213-280)の長女。鄭球、鄭豫の姉妹。出典は潘岳作『楊仲武誄』
楊潭(?-278)に嫁ぎ、楊綏(271-299)字仲武を生む。綏が8歳の時に夫が亡くなり、再婚せず幼子を育てた。

鄭元女

潘金鹿

はんきんか

潘岳(247-300)字安仁の娘。母が亡くなった後に亡くなり、父が『金鹿哀辞』を詠んだ。

令子

従姉

はんじゅうし

潘岳の従姉。秦氏に嫁ぐ。『文選』の謝庄『宣貴妃誄』注に『秦氏従姉誄』が引用された。
同書の顔延之『秋胡詩』注の『従姉誄』と同一か。

はんまい

潘岳の妹。陽城の劉氏に嫁いで亡くなり、兄が『陽城劉氏妹哀辞』を詠んだ。
『文選』の謝庄『宣貴妃誄』注にある『妹哀辞』と同一か。

令妹

鮑夫人

ほうふじん

傅巽の甥で太常・傅嘏(209-255)字蘭石(または昭先)の妻。傅祗(245-312)字子庄の母か。
司馬炎の詔書に載る。泰始年間(266年-274年)に亡くなり、司馬炎が十万銭を使って傅嘏と合葬した。

庾新婦

ゆしんぷ

潘岳の『為諸婦祭庾新婦文』の題名の女性。詳細不明。
潘岳の作品に『庾尚書誄』があり、この誄は尚書に就任した庾純字謀甫を詠んだと思しく、その縁者か。

ようじょ

楊肇(?-275)の娘。潘岳(247-300)字安仁の妻。楊潭(?-278)の姉妹。
潘岳作『懐旧賦』には258年、潘岳が12歳の時に許嫁になったと書かれる。
亡くなった一年後に夫が『悼亡詩』3首を詠んだ。結婚生活は二紀(24年間)だった。

良嬪(悼亡詩、金鹿哀辭)
楊容姫(芸文類聚巻56註)

中女

ようちゅうじょ

楊肇(?-275)の次女。任護字子咸の妻。楊潭(?-278)の姉妹。
潘岳『寡婦賦』に、任護の妻は潘岳の妻の妹だと詠まれる。
『昭明文選』巻16の注に楊肇の次女と記載。潘岳の妻は楊肇の長女か。

楊肇次子、楊姨

りくし

陸機(261-303)字士衡と陸雲(262-303)字士龍の姉。陸抗の娘。
『唐鈔文選集注彙存』の陸機作『贈尚書郎顧彦先』二首の注に顧栄(?-312)字彦先の妻と記載。
陸機『愍思賦』に同母の姉を、陸雲『歳暮賦』には姉と姑を想う句がある。
両賦は顧栄の妻と、顧謙字公讓に嫁いだ姉のどちらを指すか不明。あるいは別に姉がいたか。

伯姉(愍思賦、歳暮賦)

りくまい

陸機と陸雲の妹。陸抗(226-274)の末女。273年以降の没。
陸機が『呉大司馬陸公少女哀辞』で妹の夭折を悼む。陸抗は鳳凰二年(273年)春に大司馬に就任した。

陸少女

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