漢魏晋の墓碑志

刑憲女

けいけんじょ

河南郡緱氏県の人。許蘇氏に死後嫁ぐ。出典は『河南缑氏中華里許蘇阿銅墓』
元嘉二年(152年)12月14日、許蘇阿銅と共に埋葬された。死後結婚する冥婚の実例。

曹娥

そうが

覡の曹盱(ソウク)の娘。会稽郡上虞県の人。130年生まれ。
漢安二年(143)五月五日に父が神降ろしのため舜江に入り溺死する。
娥は父を慕って17日間泣き叫び、とうとう江に身を投げた。
元嘉元年(151年)に上虞県令・度尚が曹娥の死に様を憐れみ、邯鄲淳に碑を作らせた。
蔡邕が曹娥碑を見て碑の裏に「黄絹幼婦,外孫齏臼(絶妙好辞)」と碑文を称賛する文章を書く。

慧感霊孝昭順純懿夫人
(元史巻40)

宋夫人

そうふじん

匈奴中郎将・王柔字叔優の妻。柔の夫人には李氏もいる。出典は『華芳墓志』
王柔の弟は王澤で、その息子が征南大将軍・王昶(?-259)字文舒。

馬姜

ばきょう

伏波将軍・馬援(前14-49)の娘。膠東剛侯・賈復(9-55)の五男・賈武仲の妻。明徳馬皇后(40-79)の姉。
出典は『賈武仲妻馬姜墓記』。四女を生み、永平七年(64年)に夫が没した後は貞節を守って娘を育てた。
長女と次女は明帝・劉荘(28-75)の貴人となり、三女は亭侯朱氏(朱祐の孫・朱演?)に、
四女は陽皋侯劉氏に嫁いだ。延平元年(106年)七月四日に73歳で亡くなる。34年生まれ。

馬夫人

伯興妻

はくきょうつま

熹平三年(174年)に墓碑が建てられる。出典は『伯興妻残碑』別名『熹平三年残碑』。碑文は部分的に破損。
没するまで温和で慈愛のある夫人であったと称賛される。
夫は孝宣皇帝劉詢(AD91-AD49)の玄孫・劉般(19-78)字伯興だと推測されている。
『後漢書』には般の妻が建初二年(77)に亡くなり、显節陵への埋葬が許されたと記載。

〔阝+王〕
劉陘

馬倫

ばりん

司徒・袁隗(?-190)の妻。馬融(79-166)の娘。曾祖父の弟が馬援。扶風郡平陵の人。弁舌優れる才女。
出典は蔡邕(133-192)作『司徒袁公夫人馬氏碑』。光和七年(184年)に63歳で亡くなる。122年生まれ。
亡くなった時は子の懿達と仁達が嘆き悲しんだ。碑中に馬倫は応、霊、和の3人の子を生んだとされる。
蔡邕の『袁満来墓碑』は袁隗の子・満来が15歳で病没したと記録されるため応、霊、和は三子の名か。
満来碑中に「篤友兄弟,和而無忿」と書かれ、兄と弟がいたと読解すると満来は次男だったか。

司徒公夫人
烏氏(『後漢書集解』
25中「袁安伝」注釈)

羅鳳

らほう

宋の洪適撰『隷続』巻20に「漢貞女羅鳳墓」と記録あり。

李夫人

りふじん

雁門太守・王柔の妻。王沈(?-266)字処道の祖母。王機の母。
王機が初めて官位に就いた時に亡くなった。

雁門太夫人(『通典』102)

李翊夫人

りよくふじん

広漢属国侯・李翊(120-173)字輔國の妻。姓名不明。
碑文は皇后の誄に相当する内容で、いにしえの聖母に例えられた。

廣漢屬國侯夫人

郭夫人

かくふじん

王柔の子で東郡大守・王機字産平の妻。機の夫人には鮑氏もいる。出典は『華芳墓志』
王沈の母で王浚(252-314)の祖母。『祭先考東郡君文』に勤勉で孝行心のある母だったと王沈が述べる。
『與從叔征南將軍昶書』では若くして婦道を修め、姑に20数年仕えたと書かれる。

皇女

こうじょ

皇女は字。霊帝時の司空・宗俱字伯儷の外孫女。俱は南陽安衆の人で宗均(?-76)の族子・宗意(?- 107)の孫。
出典は『皇女碑』。 父は孝廉君、その高祖父は大尉公とされるが人物不詳。9歳で亡くなる。
宗均の孫は宗資で、その子は曹操曹丕親子に敬愛された漢中太守・宗承字世林。
宗承より一世代若く、三国時代の魏の人か。

孫中女

そんちゅうじょ

建徳亭侯・孫邕の次女。晋の任城大守・羊氏の妻。済南の人。子の羊迅が墓碑を建てる。
幼少から仁愛ある才女だった。泰始八年(272年)に70歳で亡くなる。

孫夫人(晉任城太守
羊君夫人孫氏碑)

張夫人

ちょうふじん

光禄勲・文和字叔懌の妻。文和の夫人には解氏もいる。出典は『華芳墓志』
子の温令・文猗字子課の夫人は孫氏。

滕夫人

とうふじん

太尉・華歆(157-231)の妻。出典は『華芳墓志』
息子の侍御史・華炳の夫人は任氏。炳の子・華衍の夫人は沛国の尚書粛成伯・劉芬字含元の娘。

武夫人

ぶふじん

魏の衛尉・武周字伯南の娘。尚書粛成伯・劉芬(炎、邠)字含元(令元)の妻。沛國竹邑の人。
開府儀同三司・武陔(?-266)字元夏,散騎常侍・武韶字叔夏,尚書・武茂字季夏の姉妹。
長男は南中郎将・劉粹字純嘏で夫人は荀氏。次男は太常・劉宏字終嘏で夫人は華氏。
三男は光祿勳・劉漢字沖嘏で夫人は程氏。出典は『華芳墓志』

伏氏

ふくし

安楽郷侯・桓階の妻。温和で国一番の美貌があった。出典は『任城太守羊君夫人孫氏碑』
桓階没後、曹丕が光禄大夫・孫邕の後妻にしようとしたが、孫邕は同僚の夫人であったため辞退した。

姜姑

きょうこ

姜維(202-264)の妹。四川省蘆山県城北街には姜維の妹を祀った県主祠があった。
伝承では姜維の死後、魏の監軍・衛瓘一味が姜維の家族を処刑したが妹だけは生き延びる。
その後蘆山を訪れ、民衆に学問や武芸,耕作を教えて生活を豊かにし、百姓とともに兄の遺業を全うした。

県主

毛夫人

もうふじん

蒋琬(?-246)字公琰の妻。斌、顕、贇の三子を生む。出典は『安陽侯一品夫人毛氏墓志』
蒋斌と蒋顕は蜀滅亡の際に亡くなり、蒋贇ほか一家と共に零陵郡に移り住む。
太康十年(289年)已酉十月に92歳で亡くなり、永熙元年(290年)八月に湘源県の北に埋葬された。
建安三年(198年)戊寅正月生まれ。

成国夫人
蒋母毛氏夫人

李氏

りし

馬邈の妻。平武県南壩鎮に『漢守将馬邈忠義妻李氏故里碑』があった。
明時代の萬暦40年(1612年)に石碑が建てられた。
『江油県志』には陽亭郷に烈女祠があったがすでに無くなったと記載。

李夫人

曹氏

そうし

魯粛(172-217)字子敬の妻。魯粛の四男・魯乾貞の実母。魯粛の妻には程氏と孫氏もいた。
三夫人は乾貞とその妻趙氏とともに254年に鵝塘へ移住した。
呉の太平年間中(256年10月-258年10月)に 三夫人は相次いで亡くなり、
現地で葬られ墓は近代まで保管された。現存の墓は建て直された物。

皇封詰命夫人、魯母

衛琇

えいしゅう

字恵瑛。衛覬(?-229)字伯覦(伯儒)・衛寔字叔始の娘。王浚の二番目の正妻。出典は『華芳墓志』
没後は華衍の娘の華芳(271-307)が王浚の後妻となる。

中夫人、衛惠瑛

王氏

おうし

司馬防の四男で司馬懿の弟・司馬馗の妻。
墓誌によると太康三年(282年)十一月に亡くなり、翌年三月に大常戴侯(司馬馗)の陵に埋葬された。

皇妣大妃王氏、王純

おうじょ

領軍将軍長史・荀岳(246-295)の長男・荀隠(277-?)字嗚鶴の妻。 琅耶の王士瑋の娘。
隠は太子舍人、廷尉平を歴任したが早死した。出典は『荀岳曁妻劉簡訓墓誌』
『世説新語』排調篇に荀隠と陸雲(262-303)の逸話がある。

華苕

かしょう

字宣華。荀勗(?-289)の子・荀組(258-322)字泰章の妻。華歆の曾孫娘。華芳の姉。出典は『華芳墓志』
荀組の高祖父は司空・荀爽(128-190)。荀勗は太康十年(289年)に亡くなり、司徒を追贈された。

華宣華

華芳

かほう

字敬華。王浚の三番目の妻。華歆の曾孫娘。出典は『華芳墓志』
安郷亭侯・酆字敬始と前西安令・璣字敬珩と華苕の妹。
王胄(字道世)と王裔(字道賢)を生み、37歳で亡くなる。

華敬華

管洛

かんらく

晋の待詔中郎将・徐君の妻。代郡の人。字は勝か滕。出典は『徐君夫人菅氏之墓碑』
泰(太)康十年(289年)に58歳で亡くなる。232年生まれ。

蔡夫人

さいふじん

征東将軍軍司・劉韜字泰伯の妻。沛国の人。出典は『征東軍司劉韜墓志』

士孫松

しそんしょう

字世蘭。翊軍府君の娘。傅嘏(フカ,209-255)の孫で傅祗(245-312)の子・傅宣の妻。扶風郡の人。
出典は『傅宣故命婦士孫氏墓志』。容貌優れ賢徳があったが302年に29歳で亡くなる。274年生まれ。
五代前の先祖は尚書僕射・士孫瑞(129?-195)字君栄、四代前は澹津亭侯・士孫萌字文始だと言われる。

士孫世蘭、士孫命婦

支伯姫

しはくき

安文明の妻。永康元年(300年)2月21日に亡くなった。
墓は2004年に洛陽河南偃師の首陽山鎮北の邙山上で発掘された。
夫婦共に漢民族に少ない姓のため、匈奴または月氏等の異民族の末裔だと言われる。

荀柔

じゅんじゅう

字徽音。荀岳(246-295)の長女。楽陵の石庶祖の妻。276年生まれ。穎陰の人。
妹の荀和(279-?)字韶音は穎川許昌の陳敬祖の三番目の妻。
次妹の荀恭(282-?)字恵音は弘農の楊士産に嫁いだ。出典は『荀岳曁妻劉簡訓墓誌』

荀徽音

荀夫人

じゅんふじん

王沈(?-266)字処道の妻。潁川の人。出典は『華芳墓志』
沈の子・王浚(252-314)の母は妾の趙氏。

徐義

じょぎ

賈南風(256-300)と賈午(260-300)の乳母。司馬炎の夫人。城陽東武城の人。221年生まれ。
貧民の出で、容貌は醜く体つきは丈夫だった。戦乱で家族を亡くした後、太原の徐氏に嫁ぎ、徐烈を産む。
甘露三年(公元256年)に賈南風の乳母となり南風と親しくなる。
泰始六年正月に賈南風が太子妃になり、賈南風に付き従って後宮へ入り中才人となる。
恵帝・司馬衷が即位すると良人に昇進し、70歳の時に美人へ昇格した。元康八年(298年)、78歳で没した。

徐中才人,徐良人,
徐美人(徐義墓志)

諸葛男姉

しょかつだんし

平陽郷侯・諸葛沖の娘。司馬炎の寵姫・諸葛婉の姉妹。琅耶陽都の人。
大尉・石鑒(?-294)の子・石尠に嫁ぐ。出典は『晋城陽簡侯石尠墓志』

成大女

せいだいじょ

処士の成晃(232-291)の娘。陽平の人。処士は宮仕えしなかった者の意。
出典は『処士成晃碑』。河間の東郷訓に嫁ぐ。

石好

せきこう

劉長明の妻。出典は『劉長明妻石好墓』
元康八年(298年)五月十五日に34歳で亡くなった。265年生まれ。

石令修

せきれいしゅう

令修は字。石尠の娘。黄門侍郎で江安侯かつ潁川出身の陳世范に嫁ぐ。出典は『晋城陽簡侯石尠墓志』
石尠の夫人は広平臨水の人で劉世頴の娘・阿容と諸葛婉の姉妹の男姉がいる。

孫夫人

そんふじん

王浚(252-314)の始めの正妻・文世暉の母。文猗の妻。義陽の人。出典は『華芳墓志』
征北司馬・孫朝字恭宗と樊氏の娘。一番上の兄弟は建平大守・溥字玄平で夫人孟氏。
二番目は大子庶子・超字玄叔で夫人鄧氏。三番目は南陽太守・畴字玄回で夫人崔氏。
末っ子が南安大守・啓字玄明で夫人索氏。

趙夫人

ちょうふじん

詳細不明。泰始四年(268年)七月三日に墓碑が作られる。河南洛陽で出土。出典は『夫人天水趙氏墓碑』
司馬炎の皇后・楊艶(238-274)の実母か。楊艶の幼い頃に母が亡くなっているため、死後長年を経て作られたか。

翟氏

てきし

司馬炎の側室・左芬の兄左思の妻。出典は『左芬墓志』
左思には息子の髦字英髦、娘の左芳字恵芳と左媛字纨素、子の聡奇字驃卿がいた。

伏氏

ふくし

大司農・裴祇(227-293)の母あるいは前妻。東莞東武の人。出典は『大司農關中侯裴祇墓誌』
裴祇の妻は秦國(扶風郡)陳倉の馬氏。裴祇の娘は恵庄?

大夫人

文粲

ぶんさん

字世暉。文猗の娘。王浚(252-314)の始めの正妻。済陰の人。浚との間に三女をもうけ、24歳で亡くなる。
長女の王韶字韶英は散騎常侍・棗嵩に、王麗字韶栄は廷尉卞俊の子で卞敦の弟・卞稚仁に、
王則字韶儀は平南将軍孫旂の末子・孫回字公淵に嫁いだ。出典は『華芳墓志』

文榮、文世暉
前夫人

劉簡訓

りゅうかんくん

簡訓は字。荀岳(246-295)の妻。東莱の劉仲雄の娘。出典は『荀岳曁妻劉簡訓墓誌』
永安元年(304年)甲子三月十六日に54歳で司徒府にて亡くなる。251年生まれ。
荀岳没時の簡訓は45歳、娘の柔は20歳、息子の隠は19歳、次女の和は17歳、三女の恭は14歳だった。

劉貴華

りゅうきか

貴華は字。昌安県侯・石鑒(?-294)字林伯の三番目の孫・石定(280-307)の妻。沛国相の人。
父は太常・劉宏字終嘏でその夫人は華氏。晋陵太守・劉耽の姉妹。出典は『処士石定墓志』

劉夫人

りゅうふじん

羊祜(221-278)の妻。呉国の人。
出典は『晋故使持節都督荆州諸軍事平南将軍軍司鉅平侯羊府君之墓』

劉夫人

りゅうふじん

鄭泰の孫かつ鄭袤の三男で大司農・鄭舒の妻。城陽黔陬の人。出典は『大司農鄭舒夫人劉氏墓誌』
魏の琅邪太守・劉謨の孫娘。父は匈奴中郎将かつ鷹揚将軍で并州刺史・劉欣。

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