西晋后妃
司馬師夫人 司馬昭夫人 司馬炎夫人 司馬炎姫 司馬衷夫人 司馬遹夫人 司馬熾夫人  元帝母

張春華

ちょうしゅんか

張汪の娘。母は山涛の祖父母の姉妹。司馬懿の妻。 懿の長子・師、次子・昭の母。晋の開祖皇帝・司馬炎の祖母。
夫が側室を寵愛すると疎遠になる。 病にかかった司馬懿の見舞いに行くと「憎たらしい老婆め」と言い捨てられた。
怒りと恥で、息子を巻き添えに食を断ち自殺しようとすると、司馬懿が謝罪したため未遂に終わる。
のちに司馬懿が人に「老いぼれは死んでも構わない、大事な息子を思ってのことだ」と言い、夫婦仲は険悪だった。
逸話は唐的な女性像かつ諱の春華は晋代の書物で使用された形跡があり、姓と諡号以外は唐の史家の創作か。

宣穆皇后
宣穆妃
廣平縣君

張夫人

ちょうふじん

司馬懿の側室。梁孝王・司馬肜(?-302)の母。唐の『晋書』卷38では懿の九子を生む柏夫人の直前 に載る。
そのため肜は懿の八子だと見做されやすいが、他の子の排行と生年により第三子があてはまる。

伏夫人

ふくふじん

司馬懿の側室。四人の男子を生む。懿の四子の汝南文成王・司馬亮(?-291)、
懿の五子の琅邪武王・司馬伷(227-283)、清惠亭侯・司馬京、懿の七子の扶風武王・司馬駿(232-286)の母。
伷は元帝・司馬睿(276-323)の祖父にあたる。

伏太妃

柏夫人

は くふじん

司馬懿の愛妾。懿の九子の趙王・司馬倫(?-301)の母。
司馬懿から寵愛を受け、夫に疎まれた張春華が夫婦喧嘩を起こすきっかけとなる。
この騒動があった時期は記述内容により230年以前と思しく、生年は200年から215年の間か。
子の倫はのちに権勢を握り、倫を快く思わない異母兄・司馬幹(232-311)に「白女兒(白女の子)」と呼ばれた。

白女、桓白
桓夫人(朱鳳『晋書』)
静姝〕(『新三国演義』)
方瑩(司馬懿吃三国)

夏侯徽

か こうき

字媛容。夏侯尚の娘。母は曹真の妹の徳陽郷主。211年生まれ。
司馬懿の長男・司馬師の初めの正室。五女をもうける。 見識があり、司馬師が事あるごとに助言を求めた。
夫が魏に不忠だと気付いてから不仲になり、青竜二年(234年)に毒殺される。享年24歳。
泰始二年(266年)に司馬師の後妻・羊徽瑜(214-278)の働きかけにより、皇后に追号される。

景懐皇后
夏侯媛容

羊徽瑜

よ うきゆ

上党太守・羊衜(ヨウドウ)の娘。母は陳留の蔡氏。蔡邕の孫娘。羊祜の実姉。214年生まれ。
司馬師の後妻。泰山南城の人。蔡琰 の姪か娘。聡明な女性だと評価されたが后妃伝に詳細は未記載。
呉の孫権の趙姫を称賛した形跡が『世説新語』に残る。
また敦煌写本類書『励忠節鈔』には顔回等の逸話から得た3種の教訓を残す。 
咸寧四年(278年)に亡くなり、峻平陵に合葬された。享年65歳。
没後に潘岳(247-300)が『景献皇后哀策文』を作る。

景獻皇后
弘訓太后、弘訓宮
景陽皇后(裴注『世語』)
獻皇后(勵忠節鈔
「貞烈部」)

ごじょ

鎮北将軍・呉質(?-230)の娘。夏侯徽没後に司馬師の正室になるが、離縁される。

王元姫

お うげんき

王粛の長女。王朗の孫娘。司馬昭の妻。司馬炎(236-290)の母。東海郡の人。
泰始(太始)元年(265年)に皇太后となる。 高い身分にいても普段の仕事を思い続け、
華麗さをことごとく棄てた生活をしていた。泰始四年(269年)に没すると崇陽陵に合葬される。

文明皇后、崇化宮
崇禮宮(王隱『晉書』)

李琰

りえん

司馬昭の妾。泰始3年(267年)に修華となる。以下4名も『太平御覧』中『晋起居注』に記載。
この5人の誰かが司馬昭の子の母親不明の四子、樂安平王・司馬鑒(字大明)、
燕王・司馬機、司馬永祚、梁王・司馬延祚(字大思)の母か。

李修華、崇陽園妾
李玉(『黄氏逸書考』)

王宣

おうせん

司馬昭の妾。泰始3年(267年)に修容となる。

王修容、崇陽園妾

徐琰

じょえん

司馬昭の妾。泰始3年(267年)に修儀となる。

徐修儀、崇陽園妾
徐玉(『黄氏逸書考』)

呉淑

ごしゅく

司馬昭の妾。泰始3年(267年)に婕妤となる。

呉婕妤、崇陽園妾

趙珽

ちょうてい

司馬昭の妾。泰始3年(267年)に充華となる。

趙充華、崇陽園妾

楊艶

ようえん

字瓊之。通事郎・楊文宗の娘。司馬炎の皇后。恵帝・司馬衷の母。貴人の相があり、司馬昭が息子の妻に選 んだ。
夫が衷は後継者に相応しくないと言うと「嫡子は長子がなるもの、賢さで選ぶものではありません」と答えた。
秦始年間(265-274)に後宮に入る女性を選別した際、嫉妬心から顔立ちの端正な者を選ばず、
背が高く色白の太った者を選んだ。炎が美人な卞潘の娘を欲すると、
「卞氏は三代に渡って魏の皇族でした。女官の地位では満足しないでしょう」と言って拒否した。
すると炎は絹のとばりで楊艶を遮り、その中で自ら気に入った女性に赤い絹を腕に巻き、胡芳らを得た。
泰始十年(274年)に病没し、峻平陵に葬られた。

武元皇后
楊瓊之
楊元后

楊芷

ようし

字季蘭。小字男胤。太傅・楊駿と龐氏の娘。楊艶(238-274)の従妹。司馬炎の二番目の皇后。弘農 華陰の人。
病床の楊艶が死後に胡芳が皇后に就くことを恐れ、楊芷を次の皇后に推薦し、咸寧二年(276年)に立后する。
太康四年(283年)に渤海殤王・司馬恢を生むが二歳で亡くなり、その後に子は生まれなかった。
父没後、謀反を企てたとされて罪に問われ、司馬衷の詔により廃皇后となり庶人と貶称される。
その後、金墉城に監禁され餓死した。享年34歳。在位15年。逆算して258年生まれ291年没。
懐帝・司馬熾が皇帝を称すると「悼」と諡され、峻陽陵に改葬される。

武悼皇后
楊季蘭
楊男胤
峻陽庶人

王媛姫

おうえんき

武帝・司馬炎の側室。懐帝・司馬熾(284-313)を産んだ。出自不明。おそらく平民出身か。
炎の後宮に入った時に中才人となり、早くに亡くなる。懐帝が即位すると皇太后に追尊される。

王中才人、懷王皇太后

左芬

さふん

字蘭芝。詩人・左思の妹。司馬炎の貴嬪。 斉国臨の 人。兄同様、醜い容姿だが文才に優れた詩人。
父は侍御史の左維(王隠晋書)または太原相、弋陽太守の左熹(左墓 志)。
才女だと聞き知った司馬炎により後宮入りし、秦始七年(272年)に修儀となった際に『離思賦』を作る。
のちに貴嬪となり、容貌のせいで寵愛は受けなかったが、秀でた才徳により礼節をもって炎から接された。
楊艶が亡くなると誄を作り、咸寧二年(276年)に楊芷が炎の皇后となると詔を受けて辞を作る。
万年公主が亡くなると炎は悲しみ、詔を受けて誄を作った。その文章は秀麗だと評価される。300年に没する。

左蘭芝、左貴嬪
左九嬪、左修儀
左修議(王隱『晉書』)

左貴人(左墓 志)
令妹(悼離贈妹詩)

胡芳

こほう

鎮東大将軍で胡烈(220-270)の兄・胡奮(?-288)の娘。胡遵(?-256)の孫娘。安定臨 涇の人。
司馬炎の寵姫。剛胆かつ弁の立つ才女で、飾らない言動が司馬炎に好まれた。武安公主を生む。
泰始九年(273年)容色をもって司馬炎に選ばれた後、声をあげて泣き「陛下に聞こえる」と制止を受ける。
周囲の者の言葉に対し「死をも恐れないのに、なぜ陛下を恐れる必要があるのですか」と言い返した。
父の胡奮も娘の後宮入りに涙を流し、「老いぼれは死なず、ただ子どもが二人あるのみ。
その子も息子は九地の下(墓)に入り、娘は九天の上(後宮)にあがるのか」と嘆いた。泰始十年に貴嬪になる。
胡父女の思いとは裏腹に司馬炎から気に入られ、皇后に次ぐ華美な衣装を身に着けていた。
投壺の遊びをした時、矢で司馬炎の指を傷つけ、怒った炎に「やはり匈奴を討った将軍の子だ」と皮肉を言われる。
「北の公孫は討ちましたが、西の諸葛(婉)に及ばないので、将軍の子ではありません」と返し、炎は恥じ入った。

胡貴嬪
胡貴人
胡夫人
采女
胡嬪(『蒙求』
「胡嬪争樗 晋武傷指」)
胡妃

諸葛婉

しょかつえん

諸葛冲字茂長の娘。太常・諸葛緒の孫娘。司馬炎の寵姫。琅邪陽都の人。
泰始九年(273年)に美貌をもって後宮入りし、胡芳と同等の寵愛を得た。

諸葛夫人

公孫淑妃

こうそんしゅくひ

淑妃は官位。司馬炎の側室。恵帝の時代に、優れた見識と人柄を理由に貴人の位を贈られる。
以下8名も『太平御覧』中『晋起居注』に記載。

峻陽園淑妃,
公孫貴人(晋起居注)

劉媛

りゅうえん

司馬炎の側室。泰始十年(274年)に采女から淑妃となる。

劉淑妃、劉瓊

臧曜

ぞうよう

司馬炎の側室。泰始十年(274年)に淑媛となる。

臧淑媛、臧耀

ほう

司馬炎の側室。泰始十年(274年)に淑儀となる。胡芳とは別人。

淑儀

趙粲

ちょうさん

充華,脩華は官名。楊艷の母方のおじ・趙虞の娘。天水の人。司馬炎の妃嬪。
楊艷が幼い時に母を亡くした後、趙虞の兄・趙俊の家で養われた。
その恩から楊艷が立后した時、趙俊は官位を与えられ、趙粲は後宮入りして充華となる。
泰始十年(274年)に淑儀となる。賈南風が太子妃を廃されかかった時、趙粲が弁護して沙汰やみとなった。
最期はかつて救った賈南風の罪に連座して永康元年(300年)に殺された。

趙充華
趙脩華(晉起居注)

陳琇

ちんしゅう

司馬炎の側室。咸寧三年(277年)に修容となる。

陳修容

左嬪

さひん

司馬炎の側室。咸寧三年(277年)に美人から修儀となる。左芬と同一人物か。

左美人、左修儀

けいらん

司馬炎の側室。咸寧三年(277年)に婕妤となる。

邢婕妤

朱姜

しゅきょう

司馬炎の側室。咸寧三年(277年)に容華となる。

朱容華、朱華

李貴人

りきじん

司馬炎の側室。諸葛婉が夫人の位を得た時に貴人となる。司馬允、司馬晏の母と同一か。

李曄(王隠晋書)

審美人

しんびじん

司馬炎の側室。司馬景、司馬瑋、司馬乂の母。

徐才人

じょさいじん

司馬炎の側室。司馬憲の母。

匱才人

きさいじん

司馬炎の側室。司馬祗の母。

趙才人

ちょうさいじん

司馬炎の側室。司馬裕の母。

趙美人

ちょうびじん

司馬炎の側室。司馬演の母。

李夫人

りふじん

司馬炎の側室。司馬允、司馬晏の母。

莊保林

しょうほりん

司馬炎の側室。司馬該の母。

陳美人

ちんびじん

司馬炎の側室。司馬遐の母。

諸姫

しょき

司馬炎の側室。司馬謨の母。

程才人

ていさいじん

司馬炎の側室。司馬穎の母。

賈南風

かなんふう

賈充と郭槐(237-296)の娘。恵帝司馬衷(259-306)の皇后。王隠『晋書』は南風を字とす る。
河東公主、始平公主、哀献皇女(女彦)、弘農郡公主(宣華)を産む。 肌が青黒く背が低い醜女。
非常に嫉妬深く残忍で、夫の子を身籠った妾に戟を投げつけ母子二人を殺すことがあった。
永康元年(300年)に司馬倫により皇后の座を廃した上で処刑される。
生前の悪行の報いか、史書上で度々「庶人」と貶されて書かれる。

恵賈皇后、賈妃
賈庶人、賈

羊献容

ようけんよう

羊玄之の娘。祖父は尚書右僕射・羊瑾。曾祖父は羊耽。司馬衷の二番目の皇后。
のち前趙の皇帝・劉曜(?-329)の皇后。羊祜と同族。泰山南城の人。賈南風が処刑された後に皇后につく。
永嘉の乱ののちに劉曜の妻となり、曜が漢昌元年(318年)に皇帝即位した翌年に皇后となる。
曜との間に前趙太子・劉熙,劉襲,劉闡の三子をもうけた。 光初五年(322年)に亡くなった。
献文皇后と諡され、显平陵に葬られる。

惠皇后、獻文皇后
弘訓宮

謝玖

しゃく

司馬衷の側室。愍懷太子・司馬遹の母。貧民の出身で父は羊の屠殺を家業にしていた。
清廉な人柄と淑やかな容姿をもって後宮に入り才人となり、元康二年(292年)に才人から淑妃となる。
賈南風に妬まれ、司馬衷の寵愛を受けて懐妊した後に衷の住む東宮から西宮へ離される。
遹が生まれて3~4歳になるまで司馬衷は息子が生まれたことを知らされずにいた。
司馬炎が司馬衷に遹が衷の息子であることを伝えて太子になる。
ますます賈南風に憎まれ、淑媛の位の時に元康9年(299年)12月に息子ともども殺された。
永康初年(300年)、賈南風が廃された後で子とともに顯平陵へ埋葬された。

謝夫人、謝妃
謝淑妃(晋起居注)
謝才人、謝淑媛

王恵風

おうけいふう

司馬衷の子・司馬遹(278-299)字熙祖の妃。太尉・王衍(256-311)の末女。
長姉の代わりに愍懐太子の妻となる。 太子が廃された後、父が愍と離婚させると号泣して家へ戻った。
劉曜が洛陽を陥落し、曜の将の喬属に妻として贈られるが、剣を抜いて属を拒む。
「私は太尉の娘で皇太子妃。逆賊のえびすに辱しめを受ける不義はしない」と反抗し、属に殺された。
陶弘景(456?-536)の『真詰』では字を進賢とし、洛陽の乱中に孟津河に妻にされかかり河へ身を投げたとされる。

王小女、愍懷太子妃
王進賢(真詰巻13)
貞定妃(『真詰』引『晋書』)

蒋俊

しょうしゅん

司馬遹の側室。南陽王・司馬虨の母。『資治通鑑』晋紀五に記載。
謝玖らが賈南風により殺害される時に共に殺される。

蒋美人、蒋保林

梁蘭璧

りょ うらんへき

司徒・梁芳の娘。祖父は梁鴻季。司馬炎の子・懷帝司馬熾(284-313)の皇后。安定の人。
光熙元年(306年)に立后。 永嘉年間(307-313)、永嘉の乱中に匈奴に掠奪され、その後の消息は不明。
現行の『晋書』には記録されず、臧榮緒『晉書』に記載される。

懷梁皇后,懷梁后,
豫章王妃(臧榮緒『晉書』)

小劉貴人

しょうりゅうきじん

司馬熾の後妻。劉殷(?-312)の孫娘。姉の大劉貴人は劉淵(251?-310)の四男・劉聰(?- 318)の側室。
梁蘭璧が戦乱で行方不明になった後司馬熾に嫁ぎ、豫章郡夫人に封じられる。
司馬熾が劉聰に毒殺された後は劉聰の側室になる。

豫章郡夫人

夏侯光姫

かこうこうき

『晋書』中は名を光姫、小字銅環と書くが『晋中興書』では字を光姫とし一字を銅環とする。
淮南太守・夏侯荘字仲容の娘。曾祖父は夏侯淵、祖父は兖州刺史・夏侯威。沛国譙の人。
司馬懿の孫かつ司馬衷の子・司馬覲(256-290)の妻。東晋元帝・司馬睿(276-322)の母。
貴族に生まれ、幼い頃から聡明であり、司馬衷が子のために娶った。
司馬睿が皇帝になると王太妃を称し、永嘉元年(307年)に亡くなり琅邪に埋葬される。

夏侯王妃、夏侯銅環
元夏侯太妃
恭王妃,
王太妃(晋中興書)
夏侯妃(三国志補注)

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