曹魏后妃
曹操夫人 曹丕夫人 曹叡夫人 曹芳夫人 曹髦夫人 曹奐夫人

ごおう

曹操(155-220)の祖父・曹騰(100-159)の妻。曹叡により追号される。

高皇后

丁氏

ていし

曹操の父・曹嵩(?-193)の正室。曹叡により太王后と追号される。

丁太王后

卞后

べんこう

曹操の二番目の正室。卞秉の姉。琅邪開陽の人。文帝・曹丕(187-226)の母。
任城威王・曹彰(?-223)、陳思王・曹植(192-232)、蕭懷王・曹熊(?-220)を生む。
曹植に『叙愁賦』を作らせた経緯より、献帝・劉協(181-234)に嫁ぐ二女の母か。
賢媛と評された賢母。もとは歌妓出身で卑賤の身分だった。琅邪国の人。
初め曹操の側妾だったが、丁夫人が曹操と離縁して継室となる。
曹操に育児能力を信頼され、母のいない子の養育を担った。
たびたび曹操の出征に付き添い、211年の潼関の戦いには従軍した記録がある。
219年に王后となり、220年に曹操が崩じて曹丕が王位を継ぐと王太后になる。
曹丕が禅譲を受けて皇太后となり、230年に没すると宣と諡された。
黄鬚児と呼ばれた曹彰の黄色の鬚は卞后の遺伝と思しく、北方異民族の血を引く可能性がある。

武宣皇后、永寿宮、卞
王后、王太后、皇太后
宣后(資治通鑑巻80注)
妃(北堂書鈔巻25注)
玉珍(乱世英杰)
(陳舜臣『曹操』)
玉児(電子劇『曹操』)
玲瓏(蒼天航路)
曹夫人(京劇『七歩吟』)

丁夫人

ていふじん

曹操の初めの正室。初めの嫡子・曹昂(?-197)の養母。豪族の娘。夏侯淵の義姉?
曹昂の死を嘆くあまり、曹操が実家に帰らせた。
のちに曹操が復縁を求めたが返事をせず、そのまま離縁する。
離婚後は卞后が度々挨拶をしに参り、以前と変わらず丁重に対応された。

玉英
桂蘭(乱世英杰)
美湖(蒼天航路)

劉夫人

りゅうふじん

曹操の妻。豐愍王・曹昂と相殤王・曹鑠と清河長公主の母。早世する。
清河長公主は夏侯惇の次男・夏侯楙に嫁いだ。

環夫人

かんふじん

曹操の側室。鄧哀王・曹冲(195-207)と彭城王・曹据と燕王・曹宇(?-278)の母。
曹宇は張魯の娘を娶り、のちに元帝・曹奐(246-303)字景明の父になった。

杜夫人

とふじん

秦宜禄の妻。秦朗の母。のちに曹操の側室となる。
沛穆王・曹林(曹豹,?-256)と中山恭王・曹袞(?-235)と金郷公主、高城公主を産む。

沛王太妃、秀娘

秦夫人

しんふじん

曹操の側室。濟陽懷王・曹玹(ソウゲン)と陳留恭王・曹峻(?-259)の母。

尹夫人

いんふじん

何晏の母。初め何進の子・何咸に嫁ぐ。のち曹操の側室となり、范陽閔王・曹矩を産む。

王昭儀

おうしょうぎ

昭儀は官名。曹操の側室。陳氏の子の趙王・曹幹(良,216-261)を養育する。

王夫人

陳氏

ちんし

曹操の妾。曹幹を産む。曹幹が3歳の時に亡くなり、子は王昭儀に育てられる。218年没。

陳妾、陳姫

孫姫

そんき

姫は官名。曹操の側室。臨邑殤公子・曹上、楚王・曹彪(195-251)、剛殤公子・曹勤の母。

李姫

りき

姫は官名。曹操の側室。谷城殤公子・曹乗と郿戴公子・曹整(?-218)と靈殤公子・曹京を産む。
曹整は袁紹の長男・袁譚の娘を娶ったが袁譚が204年に反乱を起こしたため離縁する。

周姫

しゅうき

姫は官名。曹操の側室。樊安公・曹均(?-219)の母。
曹均は張繍の娘を娶った。

劉姫

りゅうき

姫は官名。曹操の側室。廣宗殤公子・曹棘を産む。

宋姫

そうき

姫は官名。曹操の側室。東平靈王・曹徽(?-241)の母。

趙姫

ちょうき

姫は官名。曹操の側室。樂陵王曹茂の母。

甄后

しんこう

漢太保甄邯の末裔・甄逸の末女。西漢の太保・甄邯の末裔。中山郡無極の人。
初め袁煕の妻となり、後に曹丕の妻となる。 明帝・曹叡(206-239)と東郷公主の母。
幼少時から才知あり、心優しい人柄だった。曹氏と袁氏の戦中、鄴で曹丕に見初められて妻となる。
のちに寵愛を失い、怨み言を述べて曹丕に死を命じられ、221年に亡くなる。
曹叡が曹丕の死に際に太子となり皇位を継いだ後、甄后の復権が大いにされた。

甄夫人、文昭皇后
長秋宮、甄妃
、甄、甄小女
嫦娥、甄

郭后

かくこう

字は女王。南郡太守・郭永の娘。曹丕の皇后。安平廣宗の人。両親が早世し 家が没落する。
召使いとして働くところを、213年に魏公となった曹操に見いだされ曹丕の後宮に入る。
曹丕が太子になるよう謀り、そのおかげか曹丕が王位に就くと夫人となり、禅譲後は貴嬪となる。
甄后没後に曹丕が立后を図り、群臣に郭后の卑賤な出自を理由に非難されたが退け、皇后になる。
よく曹丕を補佐した賢夫人だが、甄后を謀殺した噂が立つ。

郭貴妃、文徳皇后
郭女王、永安宮
、郭
如玉 (廣博物志)

李貴人

りきじん

貴人は官名。曹丕の側室。寵愛を受ける。贊哀王・曹協の母。曹尋(?-248)の祖母。
協は早世して太和5年(231年)に経殤公に追封され、青龍二年に諡を改められた。
青龍三年(235年)に子の尋が爵位を継ぎ、没した際に子がなかったため領地は除かれた。

潘淑媛

はんしゅくえん

淑媛は官名。曹丕の側室。北海悼王・曹蕤(?-233)の母。

朱淑媛

しゅしゅくえん

淑媛は官名。曹丕の側室。東武陽懷王・曹鑒(?-225)の母。

仇昭儀

きゅうしょうぎ

昭儀は官名。曹丕の側室。東海定王・曹霖(?-249)の母。
曹啓と高貴郷公・曹髦(241-260)の祖母。

柴貴人

さいきじん

貴人は官名。曹丕の側室。

陰貴人

いんきじん

貴人は官名。曹丕の側室。寵愛を受ける。

りゅうひん

献帝・劉協の娘。曹丕に嫁ぐ。二人いる。

李夫人

りふじん

甄后が死に際に後事を託す。郭后の没後、甄后の死が冤罪であったことを曹叡に伝える。
曹協の母・李貴人と同一か。

貴人

任氏

じんし

曹丕の妻。豪族の娘。
曹丕の怒りを買い、甄后に弁護されるも宮中を追放される。

曹母

そうぼ

曹丕の次男・曹喈字仲雍の母。姓名不明。
曹喈は3月に生まれて5月に亡くなったことが曹植作『仲雍哀辞』に詠まれる。
父を「魏太子」とされ、魏国が成立した213年以降の生まれと思しい。

曹姫、慈母(仲雍哀辭)

徐姫

じょき

姫は官名。曹丕の側室。元城哀王・曹礼(?-229)の母。

蘇姫

そき

姫は官名。曹丕の側室。邯鄲懷王・曹邕(?-229)の母。

張姫

ちょうき

姫は官名。曹丕の側室。清河悼王・曹貢(?-223)の母。

宋姫

そうき

姫は官名。曹丕の側室。廣平哀王・曹儼(?-223)の母。

虞妃

ぐひ

曹叡が平原王だった頃の妃。河内の人。叡が即位した時に立后されず、寵愛のある毛氏が皇后についた。
卞后が慰めるも「曹家は身分の卑しい者を好んで道義を重んじない」と曹一族の不徳をなじり、離縁された。


毛皇后

もうこうごう

毛嘉と夏氏の娘。毛曾の姉。曹叡の皇后。河内の人。
景初元年(237年)に曹叡が内緒で郭皇后と女官たちと宴会をし、「昨日は楽しかったですか」と叡に言った。
曹叡は女官たちが口止めの命令を破ったことに激昂し、女官十人余りを殺し毛后にも死を賜った。
没後は悼と諡され、愍陵に埋葬される。

毛貴嬪
明悼皇后

郭皇后

かくこうごう

曹叡の二番目の皇后。西平の人。河右の大族の出身。
黄初年間に本郡に反乱が起き、避難するために後宮に入った。
曹叡が即位した時から寵愛を受け、自身とその身内は高位にのぼった。
景元四年(263年)十二日に亡くなり、翌年二月に高平陵の西に埋葬された。

郭夫人、明元皇后
永寧宮

甄皇后

しんこうごう

甄后の次兄・甄儼の孫娘。曹芳の一番目の皇后。中山郡無極県の人。
正始四年(243)夏四月に立后し、嘉平三年(251)秋七月に崩御する。
太清陵に埋葬され、懐とおくりなされる。

懐皇后

張皇后

ちょうこうごう

張緝(?-254)字敬仲の娘。張既(?-223)字徳容の孫娘。廃帝・曹芳の二番目の皇后。
父が李豊と共に司馬師失脚を画策した罪に連座し、廃位される。

王皇后

おうこうごう

曹芳の三番目の皇后。奉車都尉・王夔の娘。
嘉平六年(254年)三月に張皇后が廃され、四月に立后する。
九月に司馬師が曹芳を廃して斉王とし、王皇后も斉王妃に貶められた。

斉王妃

王貴人

おうきじん

曹芳の側室。甄皇后(?-251)没後、曹芳が立后しようとした。
三番目の皇后・王皇后と同一か。

李華

りか

曹芳の女官。男と淫行する様子を曹芳が楽しんだ。

李保林

劉勲

りゅうくん

曹芳の女官。

劉保林

禺婉

ぐえん

廃帝・曹芳の妾。曹芳との淫行が過ぎ、張美人と共に皇太后(郭皇后)に殺される。

張美人

ちょうびじん

美人は官名。廃帝・曹芳の側室。
曹芳との淫行が過ぎ、禺婉と共に皇太后(郭皇后)に殺される。

邢貴人

けいきじん

貴人は官名。廃帝・曹芳の側室。後に呉から亡命してきた孫壹の妻となる。
美人であったが性悪のため侍女の怨みを買い、夫と共に殺される。

張才人

ちょうさいじん

張當が献上した曹爽(?-249)字昭伯の女官。

何才人

かさいじん

張當が献上した曹爽の女官。

卞皇后

べんこうごう

卞秉の曾孫娘。卞蘭の子・卞隆の娘。曹丕の孫で曹霖の子・曹髦(241-260)字景明の皇后。
正元二年(255年)三月に立后する。景元元年(260年)に陳留王・曹奐が即位して廃される。

卞皇后

べんこうごう

卞秉の孫娘。卞琳の娘。曹操の孫で曹宇の子・曹奐(246-303)の妻。
263年に立后する。265年に司馬炎が禅譲を迫り、皇后を廃されて魏は滅亡した。

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