趙母とは、虞韙(グイ)の妻のことです。今後、趙姫と称します。(理由は後述)
虞韙は早世したようで、どのような人物だったのかわかりません。
趙姫の記述は世説新語に詳細が載っています。

趙姫の代表的な逸話は、嫁に出る娘との問答です。
彼女は娘にこう言いました。
「くれぐれも良いことをしてはいけません。」
それを聞いた娘はこう尋ねました。
「良いことをしないのなら、悪いことをすればよいのですか?」
趙母(趙姫)は言いました。
「良いことさえすべきでないのに、まして悪いことなど。」

この教えは後漢の女学者・班昭が著した『女誡』に基づいたものでしょう。
女性は無暗に目立った行動をとったり、自分の功績をおおっぴらにしたりしてはいけないのです。
そうすべき理由は、ひとえに女性が男性を立てるためです。
そのような班昭の教訓は男尊女卑を女性が認めたもの、とも言えます。
筆者としては「こうすれば周囲の人に文句は言わせない」といった処世術の提唱だと思っております。
趙姫の「良いことも悪いこともしてはならない」の言葉の真意は、嫁ぎ先で無難に生きろ、という事ではないでしょうか。
もちろん、これと全く違った見解があって当然です。あくまで筆者の考えです。

世説新語の注釈にはさらに詳しい記述あります。
そこでは趙母を趙姫と表記しています。姫とは彼女の名か字なのでしょう。
せっかくなので張母(張魯の母)との読みの区別のため、趙姫と呼びます。
未確認情報ですが、梁の劉孝標(462 〜 521)が付けた注釈のようです。

『列女伝』(おそらく皇甫謐の著)によると、趙姫は桐匈令東郡の虞韙の妻で、潁川の趙氏の娘です。
頭の働きが鋭く、博学でした。
夫・虞韙が亡くなると呉主・孫権はその文才を尊重し、詔をして宮中に入れました。
あるとき、孫権自ら公孫淵を征伐しようとした際、趙姫は孫権を諌めました。
その諫言を孫権が聞いたのか不明ですが、主君に物申せる女性は珍しいですね。
言えるとしたら大体主君の母や妻などの近親者なのですが、趙姫は孫家との血縁がありません。
普通の武官文官と同じような立場です。女性ながら、かなり胆力もあったようです。
のちに趙姫は列女伝(おそらく劉向の著)の注釈をつけ、それは趙母注と呼ばれました。
数十万の言を賦し、赤烏6年(243年)に亡くなりました。
また、注の中にある『淮南子』(の巻十六、説山訓)には先述と同じ娘とのやりとりが書かれています。
微妙に趙姫の言葉が変わっており
「お前がよいことをすれば、善行をしようとする人がお前を妬みます」
と少々説明口調になっています。
その問答に関して、景献羊皇后が感想を述べた記述があります。
羊皇后とは羊徽瑜のことで、蔡琰(サイエン)の姪かつ司馬師の正室です。
彼女が言うに、「この言葉は卑俗(下品)ですが、世の人の教えとすべき言葉です。」
羊徽瑜は晋書において聡明だと評された女性です。
そのような人からのお墨付き、との理由で載せられた言葉でしょう。

趙姫は文才があったと言われますが、あいにく彼女が残した文章や注釈は現存しておりません。
著名な書籍に組み込まれでもしない限り、散逸してしまうのは致し方ないことです。
趙姫の書いた文章には、きっと賢女ぶりを感じる言葉が残されていたことでしょう。


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