呉后は、孫堅の妻で孫策・孫権の母です。産んだ子供は他に孫翊・孫匡と一人の女子がいます。

呉の出身ですが銭唐に家を移し、早くに両親を亡くして弟の呉景と暮らしていました。
孫堅は呉后が才色兼備だという噂を聞き、妻にめとりたいと言ってきました。
呉后の親類は孫堅の軽薄でずる賢い人柄を嫌い、申し出を断ろうとしました。
すると孫堅は侮辱されたと思い、呉后の親類に対して恨みを持ちました。
そうした経緯を知った呉后が親類に言いました。
「なぜ一人の娘を惜しんで災いを招こうとなさるのですか。
 私が結婚して不幸になっても、それは私の運命なのです。」
これを聞いた親類は孫堅の申し出を了承し、呉后を嫁に出しました。
いつごろ結婚したのか定かではありません。
孫堅が有名になるのは17歳の時の海賊退治です。その後に呉后に求婚したのでしょう。

孫堅と孫策が亡くなり、年若い孫権が後を継ぐと、呉后は軍事と行政に関して孫権に助言しました。
呉后が述べた助言はいずれも非常に役立ったと言います。
軍事はともかく、女性が政治に口を出すことは悪事とみなされる時代ですが、事情が事情です。
孫権には頼るべき父兄がいないのですから、母が子を支えても仕方のない事だったのでしょう。

裴注の『会稽典録』には、孫策を戒める話があります。
孫策の功曹だった魏騰が孫策に逆らい、処刑されようとしたことがあります。
他の士大夫は為す術がなく、誰も孫策を引き留められませんでした。
それを知った呉后が、大きな井戸の縁に座り、孫策に向かって言いました。
「お前は江南に勢力を伸ばし始めたばかりで、まだ事を成し遂げていません。
 このような時こそ賢者や有能な人物を優遇し、多少の欠点は無視して取り立てるべきなのです。
 魏騰どのは、自分の職務に尽力なさっています。
 お前がその魏騰どのを殺せば、明日には人々がお前から離れていくでしょう。
 私はそんな事態を目にしたくありません。
 その前に井戸に身を投げて死にましょう。」
これを聞いた孫策は驚き、あわてて魏騰を釈放しました。
呉后の機智はいつもこのようであったと言います。

うがった見方をすると、孫策は何度も問題を起こしてたのですかね。
暴走するたび母に止められたと。
単なる呉后の聡明ぶりを表した例ですので、何も孫策に限った話ではないでしょうが。
ともあれ、かなり賢い女性だとわかります。
詩経や兵法に通じている、といった知識のある女性を才女だ賢女だと持て囃すこともありますが、知識と知恵は別物です。
純粋に賢女と言うべき人は、呉后のように機転が利き、実績もある女性だと思います。
孫権が呉の主君になれたのも、ひとえに母の聡明さと胆力のたまものではないでしょうか。

また、呉后が亡くなる際に後事を張昭に託した後、張昭が孫権に物申す時に呉后の名を挙げています。
張紘にも、彼の伝の注釈において好意的に見られていた様子がうかがえます。
臣下から慕われた女性なのでしょう。三国志の女性の中では最も政治的に優れた人物だと言えます。
SLGなら政治力と魅力は80越え確定ですね。


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