陳寿の記述における卞后の年齢は「曹操と結婚した時、(数えで)20歳だった」とあるだけです。
没年は230年と書かれていますが、享年は書かれていません。
裴松之の注釈による『魏書』では160年の生まれと書かれ、その生年が一般的となっています。
しかし、この記録は本当に信頼できるのでしょうか。
当頁では新たに卞后の生まれた時期を推測します。

 王沈の魏書の記録
一般的な卞后の生年は西晋の王沈著『魏書』をもとにしています。以下がその原文です。
延熹三年十二月己巳生齊郡白亭,有黄氣滿室移日。父敬侯怪之,以問卜者王旦,旦曰:「此吉祥也。」
延熹三年は160年です。この年に卞后は斉郡白亭で生まれ、部屋には黄色の雲気が立ち込めました。
父・卞遠がこの現象を怪しみ、占い師の王旦に聞くと「めでたいことです」と答えました。この怪奇現象は古くから天子の誕生の瑞兆とされました。
こういった眉唾な逸話は他の有名人にもあるので真偽を問いません。
生年の記録については確実に怪しいです。
卞后は元・妓女です。下賤な職に就かねばならない貧しい家庭状況で、親も娘もいちいち誕生日を気に掛けるでしょうか。
裕福であり名声もある家庭で育った曹操や曹丕でさえ生まれた月日がわかりません。なぜ貧民出の卞后には記録があるのでしょうか。
そもそも延熹三年の12月には己巳という日自体が存在しません外部リンクよりご確認ください。
后妃伝では卞后に続く甄后と郭后も『魏書』に生年月日が記載されます。かつ、生誕後の怪奇現象も付随します。
魏王朝成立に深く関わる皇后に箔を付けるために創作された記録の線は大いにありうるでしょう。

 曹操と出会う時期
曹操は実家に戻っている時に卞后と会いました。この時期を割り出します。
竹田晃著の『曹操 三国志の奸雄』の年表を参考にしました。

174年に職を得る

178年に免職となり、実家に帰る。

180年に復職(推定)
181年、182年に政治的介入をしたため、この時点で在職。184年黄巾の乱に参加。

185年以降不明。
正史ではこの時期に病気にかこつけて実家に帰っている。 187年に曹丕生まれる。

188年に典軍校尉となる。

曹操が沛国譙県にいた時期は
@178年から180年
A185年から188年

このどちらかです。@の期間で卞后が満19歳で結婚すると159年〜161年の生まれです。
Aは166年〜169年になります。

 曹丕の出産
卞后の長子は187年冬に生まれます。@の場合、26歳〜28歳での出産です。
19歳での結婚時から7〜9年の空白があります。この空白は奇妙ですね。
当時の曹操の正室・丁夫人は子を産まなかった女性です。
劉夫人の子が残っているとはいえ、妾となった卞后は子を産むことを期待されていたでしょう。
現に卞后は187年以降、曹彰、192年に曹植、末子には曹熊と、4人の男子を次々と生み育てました。
この出産歴からするとAの期間での結婚が自然な経緯になるでしょう。
187年当初に結婚した場合、生年は168年です。169年生まれは可能性の範囲外になります。

 女児の記録
卞后が曹丕以前に何人か女の子を産んでいた場合、結婚から長子出産までに間が空いてもおかしくありません。
曹操の娘のうち、母親が不明な者は荀ケの長子・荀ツに嫁ぐ安陽公主と、献帝に嫁いだ三人の娘 です。
記録されない早世した女児を多数産んだ可能性もあるでしょうけど、そんな子育て下手な女性に曹操が他の子の養育を任せるでしょうか。この可能性は除外します。
このうちの安陽公主と献帝の皇后となる曹操の次女は、186年以前生まれの可能性がある人物です。
前者は嫁いだ相手の年齢(荀ケの生年が163年で、その長子と年齢が同程度)、後者は排行(曹操の三男が187年生まれの曹丕のため)の点から言えることです。
この二人を産んだと考えると@でよさそうですが、ネックは卞后を母と説明する娘の記載がないことです。
他の曹操の側室には産んだ娘の記録があって、正室の卞后が娘を産んでも記録がないのは変です。
そう考えると安陽公主は卞后の娘ではなさそうです。
献帝の皇后は曹魏とは異なる史書の記載になるため、母の言及がなくとも致し方ない部分があります。

 仮説
卞后は数え20歳で曹操の妾になったと陳寿は記録しました。
妾は正式な結婚の儀式をしませんから、二人の関係は公然と周囲に知れ渡るものではありません。
一介の妾になった女性の当時の年齢が記録に残る。これもまた不可思議なことです。
後宮の女性ならば後宮に入る時に名や年齢を記録に残すことがあり、不思議ではないのですが。
一般の諸侯や役人の側妾で、妾になった時の年齢が残る女性は聞いたことがありません。そう考えると卞后の記録はかなり特殊です。
もしこの年齢が、卞后が周囲の注目を浴びた時の年齢なら記録に残る可能性は高いです。
注目を浴びる一件とは、189年に曹操が董卓から逃亡した際の曹操死亡の誤報が入った時です。
曹操の側近たちが逃げ惑う中、卞后は冷静に説き伏せて引き留め、後にその対応を聞いた曹操は喜びました。
特に正室でもない女性が曹操の側近たちに的確な采配をとったとあっては、結構な評判になるでしょう。
この時、人々が初めて卞后を曹操の側室だと認知し、その時の年齢が婚姻時のものと混同された、と考えると年齢の記録が残る妥当性が見えてきます。
この場合は卞后の生年が170年になります。
いずれのケースにおいても卞后が曹操と出会った時期はA185年から188年が可能性の高い期間だと言えます。
『魏書』の記録を絶対視せず、より幅広く卞后の生年を捉えると良いでしょう。

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