卞后の容姿に関する記録は残っていません。
他の人物の記録から、卞后は白人風の風貌だったと推測することはできます。
その異説は中文書籍において『從鴉片戰爭到甲午戰爭』で触れられました。
当頁はその説を紹介します。
キーワードは卞后の出身が琅邪国であることと、息子の曹彰の風貌 です。

 東晋二代目皇帝
まずは卞后と縁もゆかりもなさそうな、東晋の明帝・司馬紹の説明です。
司馬紹の政敵・王敦が司馬紹のことを「金髪の鮮卑野郎」と呼びました。
この記録は南朝宋にできた『異苑』巻四が出典です。原文は下記の通り。
王敦既為逆,頓軍姑孰,晉明帝躬往覘之。敦時晝寢,夢日環其城,乃卓然驚寤,曰:「營中有黃頭鮮卑奴來,何不縛取?」帝所生母荀氏燕國人,故貌類焉
この逸話は劉義慶(403-444)の『世說新語』假譎篇にも同様に記載されました。
『世說新語』本文では「黃須鮮卑奴」,「黃須人」と、司馬紹のヒゲを黄色だと王敦は言いました。
これは唐代成立の『晋書』も同様に「黃鬚鮮卑奴」と表現しています。「須」と「鬚」は同じ意味です。
司馬紹の体毛は黄色 だったようです。

 異民族出身の母
鮮卑族は東晋時代の蔑称に「白虜」とあるように肌が白い民族です。
北宋の蘇軾の詩には「赤髯碧眼老鮮卑」の一句があり、明らかに漢民族とは異なる風貌を詠まれました。
いわば白人です。このような司馬紹の見た目を、どの記録も母の荀氏の遺伝によるものだと書きました。
荀氏は中国の北の果て、燕の出身です。燕代の人とも記録されました。代は燕の西側にある土地です。
この地域は北方異民族の烏丸・鮮卑の居住区に近く、晋時代は鮮卑族が多く住んでいました。
居住状況は『晋書』巻102の劉聰伝に「鮮卑之眾星布燕代」と記録してあります。
鮮卑族の多くの者が燕代に天星密布、つまり星がびっちり集まったかのように居住していたと記録されました。
燕出身の者が全員異民族とは断言できませんが、荀氏は史書の表現より北方異民族の出身と断定したも同然です。
王敦の言葉より、その出身は鮮卑族である可能性大です。

 琅邪に住む異民族
荀氏は東晋の元帝・司馬睿の夫人です。その司馬睿はかつて琅邪王であり、琅邪国を治めていました。
荀氏は出身こそ燕ですが、司馬睿に見初められた場所は琅邪です。
そして卞后は琅邪の出身です。
琅邪は異民族出の人々が集まりやすい場所だとすると、卞后も異民族の血を引く可能性があります。

 曹彰の鬚
琅邪国出身というだけでは異民族風の容姿を持つ根拠にはなりません。
最たる理由は卞后の二番目の息子・曹彰の風貌です。
曹彰は父の曹操より「黄鬚兒」と呼ばれていました。黄色いヒゲの子です。
『三國志』裴注の『魏略』ではこの呼び名を「曹彰のヒゲは黄色だったのでこう呼ばれた」と解説しました。
曹彰の体毛が卞后の遺伝により黄色になったとすると、卞后も黄色の髪を持っていた、ということになります。

 日本人向けの補足
日本には曹彰の黄鬚児の由来を、ヒゲの色以外で解釈する方がいます。
いわゆる虎ヒゲ、または虎のような勇猛さを讃えて名付けたという見方です。
その捉え方では曹彰の体毛の色は普通であり、卞后の髪も黄色ではありません。
ですが、中国では曹彰の黄ヒゲを否定する例を見かけませんでした。
例えば漢字検索サイト『漢典』の黄须儿は「曹彰は剛勇を持ち、ヒゲが黄色であったために名付けられた」と、黄ヒゲを肯定します。
あくまで史書上の名付け理由はヒゲが黄色だったという、シンプルなものです。
その点は誤解なきようお願い致します。

 余談
演義の孫権の風貌は紫のヒゲに青色の目という設定です。
この特徴はしばしば鮮卑族系の見た目だと言われます。
紫の体毛は随分とファンタジーですけど、中国人の言う紫は日本人が茶色じゃないかと思う色も含みます。
同様に卞后と曹彰の体毛が黄色と言えど、色の幅があります。その幅を広く捉えましょう。

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