正史一 >にて王異は貞女の逸話を持つ女性だとわかります。
ところが、趙昂と結婚する前に別の男に嫁いでいたという見方もあります。
過剰に貞操を守ろうとした女性にしては、やる事がちぐはぐです。
本当に先夫がいたのでしょうか。

 厄介な「故」
まず、趙昂以前に夫が居たと見られる文章が以下の一文です。
   趙昂妻異者, 故益州刺史天水趙偉璋妻
正史1の訳では「故」をそのままにしていました。この「故」をどう捉えるかで文章の意味が違ってくるのです。
(ちくま正史三国志では「もと」と訳されています)
3通りの解釈ができます。
  「王異は以前、益州刺史の趙偉璋の妻だった」 (もと、益州刺史の妻)
  「趙昂の字は偉璋で、益州刺史に就任したことがあり、王異はその妻である」 (もと益州刺史、の妻)
  「亡き趙昂の字は偉璋で、最終的に益州刺史の座に登りつめた」(「故」は故人の意味)
1つ目の解釈では趙昂と趙偉璋は別人を意味します。
2つ目と3つ目の解釈は趙昂と趙偉璋は同一人物を指します。
王異が二夫にまみえたと読む場合、1つ目の解釈で捉えます。
2つ目だと回りくどいですから、そちらの方がスッキリするでしょう。

ですが筆者は1つ目以外を推します。理由は以下の3つです。
 一.趙昂の字は偉璋
 二.皇甫謐による女性の記述方法
 三.益州刺史に就任した人物の記録

一と二では趙昂と趙偉璋が同一とする肯定、三では王異に先夫が居たことの否定をします。
なお、一は趙昂の<字の表記 >と内容が重なるため当頁では割愛します。

 皇甫謐の紀伝体
二番目も楊阜伝裴注にあります。王異と同じく、皇甫謐の列女伝からの引用です。
皇甫謐列女傳曰: 姜敘母者,天水姜伯奕之母也 。建安中,馬超攻冀,害涼州刺史韋康,州人凄然,莫不感憤。敘為撫夷將軍,擁兵屯歷。敘姑子楊阜,故為康從事,同等十餘人,皆略屬超,陰相結為康報仇,未有間。會阜妻死,辭超寧歸西,因過至歷,候敘母,說康被害及冀中之難,相對泣良久。姜敘舉室感悲,敘母曰:「咄! 伯奕 ,韋使君遇難,豈一州之恥,亦汝之負,豈獨義山哉?...以下略
姜叙の母には息子が居ることがわかります。当然ですね、そう呼ばれているのですから。
この一文を見て、姜母は姜叙以外に姜伯奕という子も居る二児の母だと思う方はせっかちです。
なぜなら文中で姜母が姜叙を伯奕と呼んでいるからです。つまり姜叙の字は伯奕なのです。
どうして皇甫謐は「姜叙の母は姜叙の母である」と書いたのでしょう。
おそらく彼にとって「趙昂妻」や「姜叙母」は一種の名称であり、具体的な身分の説明ではなかったのでしょう。
皇甫謐の列女伝以外では、姜叙の母は陳寿の記述で「叙母」と書かれ、王異は『資治通鑑今註』では「趙昂妻異」と書かれています。
この呼び名が彼女たちにとっての名前に等しかったのです。
今でこそ王異の名前が広まっていますが、当時は男性を基準にして呼ぶのが普通ですからね。
見出しと同様、人々がわかりやすいよう先に「趙昂妻」と紹介しておき、その後に素性を説明したのでしょう。

皇甫謐が書いた女性の伝記全部が、男性の名前を二度も繰り返して記録されたわけではありません。
彼は他にも夏侯令女、趙娥などの伝も書き残しています。
彼女らを説明した文章は、王異と姜叙の母よりずっと自然です。
例えば夏侯令女は「曹文叔の妻は夏侯文寧の娘」、趙娥は「龐子夏の妻で趙君安の娘」という風に書いています。
近親の男性が複数いるからこそ、同一人物の名前を何回も出す必要がないのです。
これらの記述に妙な共通点があります。
必ず男性の名称は姓+2文字となっているのです。この2文字の部分は字でしょう。
2文字の名を持つ男性もいますが、当時はかなりの少数派です。
皇甫謐の挙げた男性全員が2文字名だったとするには無理があります。
つまり、偉璋とは趙昂の字で、故益州刺史天水趙偉璋 趙昂のことなのです。

 王異に先夫がいない理由
三番目は益州刺史の記録が根拠です。
『二十四史訂補』と『二十五史補編』の『漢季方鎮年表』を参考にしました。
未確認ですが、厳耕望が著した『両漢太守刺史表』には趙偉璋の情報があるらしいです。
本の評判を聞くと、著者も推定でしかわかっていない模様です。
おそらくこの著者も故益州刺史天水趙偉璋の部分だけを見て書いたと思しいです。

王異が益州刺史と結婚していたと書かれるからには、何かしらの根拠があったはずです。
刺史ともなれば高位の地方官です。下っ端の役人ではなく、そうそう間違えることはないでしょう。
もし王異に趙昂以前に益州刺史の夫が居たのなら、210年ぐらいまでの記録に趙偉璋という名前が残っているはずです。
馬超が趙昂たちを襲い始める時期は213年の1月ですし、それ以前に西城の事件が起こっていますからね。

筆者の狭い調査範囲で調べた結果としては、ありませんでした。
楊阜が益州刺史になるまでの間、趙姓の人さえ載っていません
(そもそも益州牧が存在しているので刺史は必要なく、当然と言えます)
楊阜が就任した数年後には趙姓の人が記録されています
この趙さんは趙昂とも趙偉璋とも書いてありませんが、その内容は<魏の益州刺史>に載せます。
趙昂より前の夫の記録がないのですから、王異が先夫がいたとは言えないでしょう。
結論は王異の夫は趙昂だけ だったという事になります。

 中国人も勘違い
修飾語がどこにかかるのか、はっきりしないと誤解されますよね。
中国でも趙昂は二番目の夫だと説明されることがあります。もちろん、趙昂は趙偉璋と同じ人物だと考える方もいます。
本場の方にとってもまぎらわしい表現のようです。
それは現代人だけでなく、昔の人も同じだった形跡がありました。内容は<王異は趙氏の娘? >で紹介します。

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