趙月は正史において馬超との戦いで人質になった王異の息子です。
両親が馬超に従わなかったため、馬超によって殺されることとなりました。
彼はどのくらいの年頃で亡くなったのでしょうか。

 馬超の副将  
演義では馬超の部下となっています。そして正史と同じく馬超によって殺害されます。
正史では馬超に仕えておりません。
父が曹操の配下に属する人ですから、普通の状況であれば馬超の部下になりえません。
特に伝承も根拠もない演義の架空設定と言えるでしょう。人質要求のやり取りを省略したかったのでしょうか。
この場面は馬超がやられ役ですし、正史では完全に馬超が悪人になってしまう所です。
蜀漢を主役に据える作品では省きたい場面ですが、話を端折れば馬超の蜀軍参入の経緯がわかりにくくなります。
苦心の末の結果なのでしょう。
正史では馬超が部下に趙昂を求めていますから、趙月20歳趙昂がまだ働き盛りの40歳ぐらいとしたら無理のない設定です。
これで趙月30近く、趙昂50過ぎであれば不自然でしょう。
50歳も過ぎれば当時はもう老将の域です。馬超が欲しがるメリットはありません。
趙昂には特別な武功はありませんし、活躍の見込みは皆無です。ギリギリの線で可能性がある設定ですね。

  人質抜擢の謎  
馬超が趙月を人質として得た理由は、趙昂を部下に使いたいが信用できなかったためだと史書は記録しました。
文章の通りに考えると、馬超にとって趙昂は自分の部下にしたい武将だった、ということになります。
馬超が個人的に趙昂を気に入った可能性はあるでしょう。
しかし、当時の彼は曹操と対抗する戦力を必要としています。
一戦力として趙昂が優秀な将であるかと言うと、どうしても楊阜に見劣りします。
先の潼関戦にて、曹操に進言した楊阜のほうが優秀に見えます。彼の予想は的中し、馬超との抗争が起こりました。
そして冀城の防衛をする時は、楊阜が自身の一族を含めた兵一千余りを指揮しました。
趙昂は防衛に参加しますが軍を率いる様子は記録に載っていません。
楊阜が馬超に反旗を翻す計画の首謀者だったことを除いても、補佐に回る趙昂より楊阜こそが将軍の風格を備えています。
楊阜を部下にしたい、と思うのが実用面で自然な考えです。
そんな楊阜の人質と言えば、冀城が落ちた時に拘束された従弟の楊岳がいます。
とはいえ、楊阜が韋康の降伏を諌めた言葉から察するに、楊阜は身内が死のうと自身の意志を貫く性格です。
楊阜に直接働きかけるよりも、その近辺の人物を懐柔するほうが手っ取り早いでしょう。
それで楊阜の旧友・趙昂に人質を要求したのかもしれません。

  人質になった後
趙昂の嫡子が人質になることで、趙昂は馬超に従わざるをえなくなります。
趙昂にとっては趙月が死ねば一家断絶の危機が予想されます。
儒教思想を基本とする時代、子孫を残さない事はこの上ない親不孝であるため、通常何としても避けるものです。
その上で馬超は「嫡子を盾にすればその親は自分に従い、親は同僚にも自分に従うよう働きかける」と見込んだのでしょう。
ただ難点は趙月の母です。趙月の母親と言われる王異は馬超の妻・楊氏の耳に届くほど、烈女で名を馳せました。
そのような母に育てられた子が大人しく捕まったままでいるでしょうか。
もし知恵の鋭い者なら、間者として働いてしまうかもしれません。
先の潼関戦にて敵の奸計で痛い目に遭った馬超が、その危険を見過ごすでしょうか。

 正史から推測
少ない記録から考えた所、趙月は幼子だったとすると自然な経緯になります。
自分で物を考え、行動するには不十分だったと思われます。
子供を容赦なく殺すなんて、馬超の凶悪さが増しますね。
演義の作者はその辺も考慮したのでしょうか。 

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