王異の夫・趙昂は個人の伝が立てられていません。
楊阜の裴注と皇甫謐の王異の伝でやっと名前が出る人です。
そのように少ない記述の中、彼は益州刺史に就いていたと書かれています。
しかし、歴代の益州刺史の記録には名前が残っていませんでした。
趙姓の益州刺史なら一人だけ記載されています。彼は趙昂と関係があるのでしょうか。

 刺史と牧
益州刺史の他に益州牧という役職があります。刺史とはどう違うのでしょう。
  ご存知の方は飛ばしてお読み下さい。
筆者が益州刺史の記録を調べた『二十四史訂補』には、「刺史あるいは牧の記録」という風に書いてありました。
また、『二十五史補編』の『三國職官表』には以下のことが書かれています。
魏 諸州刺史六百石第五品(官品名州單車刺史)其或置牧則二千石(曹休領揚州○夏侯尚領荊州○孫礼桓範冀州○韋端涼州
  中略
其梁益諸州不入版圖者亦置刺史遙領之(梁州有耿鬴解修○ 益州有厳幹趙顒楊阜黄権
明確な差は給料の違いくらいです。どちらも似たような地方長官だったのでしょう。
なお、中華書局出版の『三國職官表』も全く同様の内容でした。『二十五史補編』はこの書籍を引用するので当然ですけど、念のため。
刺史と牧の役割は同一ですが、軍事指揮能力の有無があったと言われています。
一般的に軍事権力は刺史が無く、牧にはあります。
魏に関しては刺史も軍事権力を持っていましたが、持たない刺史も居たようです。
おそらく刺史以外に将軍職を兼任して指揮能力を得たのでしょう。

この文章では牧の給料が二千石と書かれた後、人物の名前が出てきます。牧となった人の名前でしょう。
涼州牧の韋端は、涼州刺史となる韋康の父親です。
韋康は皆さんご存知ですね。趙昂や楊阜が仕えた上司であり、王異含めた部下全員が馬超と争うきっかけを作った人です。

一方、刺史は給料が六百石です。だいぶ下がりますね。
魏の刺史は単車刺史というものに該当するようです。
まず単車とは何でしょうね。車(馬車)が一つしかないのです。
   自分が乗る馬車だけがある⇒将軍のようにたくさんの兵士や護衛がいない⇒軍事能力を持たない
軍事権力を持つ刺史は単車刺史とは呼ばれないようです。自分の兵が持てますからね。
明確な記述はありませんが、趙昂は単車刺史だったのでしょう。
将軍の位につけたなら、もう少し史書の扱いが良くてもいいはずです。

 領地のない刺史
魏の益州刺史は、215年 に楊阜が就任することによって誕生します。
その頃、益州牧となっていた人は劉備です。 劉備が益州の支配者であり、以後も彼は本拠地にしていきました。
当然、益州は曹操の支配下に置かれたことがありません
益州を支配していない曹操が、勝手に部下に益州刺史を名乗らせていたのです。
曹操の思惑はどの史書にも載っていません。 曹操が漢中の張魯を討伐する際に楊阜を益州刺史にした、という出来事だけが記録されました。

楊阜以前に、変わった形で益州刺史となった人物に扈瑁 がいます。
裴松之注釈の『英雄記』では「劉焉が死に、子の劉璋が代わって益州刺史となった。その時、扈瑁が益州刺史に任ぜられて漢中に入った」という風に書かれました。
漢中を支配すればその地の管理者として益州刺史になれる ものだったのかもしれません。
ただ、仮にそうであっても曹操が漢中の支配者・張魯を降さない内に楊阜を刺史にしています。
「漢中(or益州)をとるぞー」という意気込みの表れだったのですかね。
曹操の没後は蜀攻めと無関係な人物が益州刺史になっていきました。曹丕の代になると名誉職扱いなのでしょうか。

  楊阜の後任
楊阜は涼州の騒乱を鎮めた功績を称えられて益州刺史となり、曹操が張魯を降した後に金城太守に就任し、金城太守から転じて武都太守となりました。
益州刺史でいた期間は不確かですが、219年の時には解任されたようです。
そして楊阜の次の益州刺史が現れます。その人は趙顒(チョウギョウ)といいます。
正史には夏侯淵が定軍山で斬られた時、一緒に殺されたと記載されています。その時にいきなり名前が出てくるのです。
趙ギョウがいつ益州刺史に就任したのかはわかりません。
『二十四史訂補』では217年、『二十五史補編』では218年から刺史に就いたと記録されています。
夏侯淵と共に死んだからには、その前の年ぐらいには刺史だったのだろう、という憶測のもとで書かれたのでしょう。
夏侯淵は219年の正月に亡くなっていますから、どんなに遅くとも218年中に趙ギョウが刺史でいたはずです。
しかし、彼が就任した時期の正確な記録はどこにもありません。
そもそも趙ギョウの素性は一切不詳 です。
名前からして曹操の縁者ではありませんし、何の名声もない人です。
このような無名の人物が刺史という高位の役職に就けるのでしょうか。

 趙昂と同一か
趙ギョウが趙昂のことだとしたら、先述の不可思議な点が解消できます。
趙昂には刺史就任可能な功績があります。
趙昂は古くからの楊阜の同僚であり、同じく馬超との戦いに参加しました。
参戦しただけならば他の仲間の梁寛や趙衢なども刺史候補に上ります。
彼らと楊阜、趙昂が大きく違う点は一つ、烈婦の存在です。
楊阜の姑・姜母は楊阜に馬超と戦うことを勧め、楊阜達が結束して計画を立てるきっかけを作りました。そのことを曹操自身、称賛しています。
趙昂の妻・王異は楊阜達の計画を順調に進められるよう、立ち回りました。史家は王異がいたから計画を成就できた、と評価しています。
彼女らなくして楊阜達の勝利がありえたか、誰にもわかりません。
それほど重要な存在とはいえ女性に官位は与えられませんから、近親者かつ功労者の男性に褒賞が余分に行ったのでしょう。
趙昂が楊阜の後任になった、とみると事の次第が自然な成り行きになります。
問題はなぜ、定軍山で散った益州刺史が趙昂でなく趙ギョウと書かれたかです。
名の漢字が違う理由は別の項目で考えていきます。

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