もう一つの姓
一説には士姓だと書かれた王異ですが、実はもう一つ異説があります。
それは趙姓です。南宋の蕭常が1188年に書きあげた『続後漢書』列女伝に載っています。
原文が以下の通り。
 『續後漢書』巻七十八
趙昂妻異者,不知誰氏女也。〔原注・案皇甫謐列女傳・趙昂妻異者・故益州刺史天水趙偉璋妻王氏女也・偉璋女則姓趙氏 ・而妻昂則同姓也・此必有誤・不可考・故祇云不知誰氏女也〕
趙昂の妻の異は、誰の娘かわからない。〔皇甫謐の列女伝によれば、趙昂妻の異は益州刺史の天水の趙偉璋の妻・王氏の娘である。偉璋の娘はすなわち趙姓であり、つまり妻(異)と趙昂は同姓である。これは必ず間違いがあり、考えられないことだ。それゆえ、まさに「誰の娘かわからない」と言うのだ〕
こちらは撰者自身が「趙姓らしいけどそんな事ありえないから姓不明にしとく」と書く中途半端な説です。
この説が出る要因は「趙昂妻異者,故益州刺史天水趙偉璋妻,王氏女也」の一文です。

王氏が母か
撰者の意に即して読解すると、王異の父が趙偉璋で、母が王氏となります。
一般的に子どもは父方の姓を名乗りますから、父が趙姓なら王異も趙姓だという理屈です。
そして同姓不婚が当然な国で、同姓の男性の妻となるのはおかしい、ありえない事だと言って撰者は王異の姓を書かなかったのです。
同時代に同姓結婚をした夫婦は居たようですけどね。
『三國志』卷十八の李通伝には陳恭の妻の弟が陳郃だと記録してあります。陳恭の妻は陳氏で同姓婚です。
ともあれ、『続後漢書』においては王異ではなく趙異だと思われたようです。
撰者は皇甫謐の著作のみを見て、三国志裴注は見なかったために趙偉璋と趙昂が同一だと見做せなかったのでしょう。
皇甫謐先生の文章は昔の人にもややこしく感じたようですね。
この説は編者の誤読が原因で発生したものですから、王異を趙異と呼ぶのは不適切でしょう。

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11/5/27Bup

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