※満年齢で述べていきます。実年齢+1をする数え年ではないので注意。
王異の大体の生年を考えて見ましょう。
初めに可能性のある最年少を特定します。
具体的な最年少の前提は「王異は女性が成人する14歳の時に嫁ぎ15歳で子を産んだ 」です。
結婚可能年齢は地方や女性の家柄によって更に低くなりますが、一般論でいきましょう。
その上で現実的な(と筆者が勝手に思う)生年を出します。
考慮すべき数字は、西城の乱の際に娘の趙英が5歳であったことと、馬超の襲撃が始まる213年です。
楊阜伝では212年となっていますが、『資治通鑑今註』よりこれは間違いです。

 演義の場合
213年の馬超との争いの時、息子が何歳かを考慮します。
息子は馬超の配下になっている設定ですから、自立した年頃です。
趙月が馬超の傘下に加わる時期は冀城の戦い後か、それ以前のことかははっきりしません。
ここでは冀城の戦いの前に馬超へ仕官したと想定します。
大抵は男子の成人年齢である19歳前後に勤め出すようですが、明確な記述は特に見つかりませんでした。
また、明らかに19歳になる前に家を出る人も居ます。
夏侯惇が13歳で実家を離れたように、家出少年の要領で考えて見ましょう。
仮に213年時で15歳だったとすると
王異15歳+月15歳=30歳→183年
もう少し余裕を持たせた場合
王異17歳+月20歳=37歳→176年
こんな感じになるでしょう。馬超と同じ生年になりました。
趙月の年齢が新人の域を出ませんが、これが妥当な線かと思います。
仕えた主に斬って捨てられるのですから、それほど信任は厚くないのでしょう。
長く馬超に仕えていた場合、上司からためらいもなく殺される様子が不自然に見えます。
別段、趙月が何かやらかしたことも馬超と不仲だった設定もありませんからね。

 正史の場合
娘が5歳という記載から、始めに西城時代に王異が何歳だったか推定し、
その後、冀城戦時に何歳かを考えてから生年を特定します。
西城の事件が何年に起きたのか全く記録に残っていません。
ただ、王異親子は春から冬になるまで西城に居たと正史に記載されています。
事の起こりから半年以上1年未満経っていますね。
この後すぐに冀城へ移住したとすると、事件は212年に起こったことになります。
213年の新春・1月に馬超が攻め、8月に韋康が殺されますから、それまでに王異が冀城にいればよいのです。
西城の話は最も遅くて212年のことになるでしょう。
王異が15歳で娘を産んだとして、事件から1年後を計算しますと
王異15歳+英5歳+1=21歳→192年
かなり忙しい人生になります。
出産時年齢に少し余裕を持たせ、西城から冀城まで行くのに5年置いてみると
王異17歳+英5歳+5=27歳→186年
演義に比べるとずいぶん遅い生まれになります。
西城から冀城へ移住する期間に特に根拠はありません。
後に王異の名声を覚えていた女性が現れますから、これぐらいがちょうど良いと判断しました。
この名声とは、西城の事件のことだと筆者は断定しています。
その上で王異の貞婦ぶりが噂になるのに十分な期間と、その噂が忘れ去られない期間を折衷したつもりです。
  正直な所、西城の貞婦話は結局王異が死んでいないので、それほど人々に持て囃されたとは思えません。
  魯迅が言うに「貞女は死に様が壮絶であればあるほど、苦しみがあればあるほど評価が高くなる」ものなのです。
  王異は毒薬を飲みこそしましたが、すぐに解毒剤で助けられました。
  貞女としては二流な感じですから、きっと人々の興味関心を長く持たせられなかったでしょう。

 冀城戦から
王異は戦で弓を射るための防具を身に着けていました
それを着用するということは、当然弓を使い矢を放って戦闘に参加したはずです。
その時の王異には戦闘に耐えうる筋力、体力があった というわけです。
一般的な女性の体力の衰えを思うに、当時の王異が40歳以上の中年女性であったとは考えにくいです。
自分が戦闘で役に立たないとわかれば、武装しても「戦争ごっこ」に過ぎないと判断したはずです。
そうなれば、演義と同じく兵を鼓舞するだけで終わったでしょう。
物資が乏しかったこともありますし、自分の分の武具を他の男性に渡したのではないでしょうか。
王異が武装しないからといって兵士の士気が減るほど、兵の統率者に不足した状況ではありません。
しかし、彼女は武具を持って戦闘に参加しました。それは少しなりとも自分が戦力になると判断したからでしょう。
女性でも戦力になる現実的な年齢に加え、子持ちだったことを考慮すると、30歳前後が妥当かと思います。

 後妻だった場合
趙昂の子どもたちは他の女性が産んだ子だとしたら。
上記の子どもの年齢を基準にした王異の生年は無意味になります。
213年の戦に参加できる年齢だったという条件が付くのみです。極論、10代での参戦も否定できません。
意外なようですが、一応は史的な理由があります。
王異の伝の中では確かに子どもを「(王)異の娘」「(王)異の子」と書きます。
しかし、これは伝記の主役が王異であり王異を基点とした表現です。
本来は趙昂の子と書くのが正確ですけど、逐一趙昂の名を出しては誰が主人公なのかよくわからなくなります。
便宜上、趙昂の4人の子どもすべてが王異の子どもだと書かれた可能性があるのです。
史書にはっきりと親が違う子だと区別される状況は、親が違うことによって起きた事件がある時です。
例えば羊祜の母・蔡氏は自身の子と前妻の子のどちらかしか生き残れない時、前妻の子を助けたと記録されました。
王異の場合、選択肢は子を生かすか見殺すかの2択であり、それが実の子であろうと他の女性の子であろうと無関係です。
史家は実子か義理の子かの区別をする必要がないのです。
趙昂の子たちが本当に王異の産んだ子であるか、誰にも真相はわかりません。

 総合
以上から演義と正史両方に通用する生年は180年前後です。
正史だけならば180年以上190年以下 といった所です。
無難な線でいく場合は180年代の生まれで良いでしょう。
馬超より年下だったのではないですかね。

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