王異に関わりのある人物を挙げます。
一度でも顔を合わせていることは面識、王異の存在を知っていることは認識と表現します。
きちんと記述がある場合は◎可能性の高い場合は○
どちらとも言えない場合は△ほぼ可能性がない場合は× と表記します。


 -面識&認識◎-
 趙昂……王異の夫。
二人のやりとりから、王異への信頼の厚さ が伝わります。夫婦仲は良かったようです。 
馬超との攻防戦以降の記録は不確かですが、史書に記載される益州刺史・趙顒と同じ人物の可能性があります。
その場合は漢中征伐、防衛の際に王異とともに戦地を廻っていたかもしれません。

 楊氏……馬超の妻。
敵ながら、王異と面会して王異を気に入ります。
一時的とはいえ、王異とは親しい間柄だったのでしょう。

 -面識△、認識○-
 楊阜……韋康の部下。趙昂の同僚。
趙昂とは古馴染み。反馬超勢のリーダーです。
趙昂伝いに王異のことは知っていた でしょう。
王異が彼らの立てた計略に関わり、要所の防衛も夫とともに行なったのですから。
しかし当時は妻を軽々しく家族以外の男性に見せない風習があるため、面識があったのかわかりません。

 尹奉……韋康の部下。趙昂の同僚。
楊阜と同様、趙昂と昔から交友のあった仲間です。
楊阜たちが馬超に反旗を翻した際、尹奉は趙昂と共に祁山の守備をしました。
王異は趙昂と行動を共にしたはずですから、同じく祁山にいて共に戦ったのでしょう。

 馬超…韋康配下の宿敵。
楊氏から王異の存在を知らされていた はずです。
妻の言うことを丸っきり信じてしまい、自分の身を滅ぼすハメになります。おそらく、呂布と同じように妻の言葉には弱い人だったのでしょう。
面識については、冀城戦・祁山戦ともに戦場で王異を見た可能性があります。
戦場で会うと言っても、王異が立て篭もった陣地から矢を射かけられる程度でしょう。

 -面識&認識△-
 夏侯淵……王異たちの命の恩人。
祁山戦の馬超の包囲を崩したのは、彼の軍のおかげです。
それも曹操の命令を待たず、彼自身の判断で援軍を出しました。
お役所仕事しかできない将軍であれば、きっと韋康配下が全滅していたことでしょう。
夏侯淵の的確な判断のおかげで王異たちが救われます。
夏侯淵が先発部隊と合流する頃、すでに馬超は漢中へ逃げ帰りました。
戦が終わった後の到着なので、祁山を守備していた趙昂夫妻と出会ったか不明です。
後の漢中征伐に参加し、趙ギョウらと漢中の守備に就いたためその線で関わったかもしれません。

 張郃……実質的な馬超撃退者。
韋康配下救援時、援軍の先鋒を務めました。
祁山での馬超の包囲を解かせた要因は、夏侯淵配下の彼の軍隊です。
夏侯淵とともに王異たちの命の恩人 です。
馬超軍が早々と撤退した後、張コウたちは馬超軍が残した兵器を回収しました。
包囲のあった場所までは出向いているため、そこで趙昂夫妻に会った可能性があります。
また夏侯淵同様、張コウも漢中の攻防戦に参加しています。

 龐徳
……馬超配下。韋康配下の敵。
馬超に従い冀城攻めに加わりました。その点は他の馬超配下も同じことです。
ただ、ホウ徳は曹操が張魯を攻めてきた時に戦い、降伏しています。
この戦には趙ギョウが関わった記録があるため、趙夫妻と因縁の再会があったやもしれません。

 徐晃……さりげなく夏侯淵と同行していた将軍。
潼関の戦いの後、徐晃は夏侯淵とともに異民族と賊軍の反乱勢力の掃討を行なっていました。
年号がわかる記録は212年に梁興を斬ったことです。
正史の伝はその後、215年の張魯征伐に加わったと書くため、徐晃の記録には3年間の空白があります。
この期間は目立った活躍の場がないものの夏侯淵たちと共に行動していたと思われます。
張魯を降した後、徐晃は漢中の防衛にも参加しています。

 -面識×、認識△-
 曹操…王異たちが仕えた大元の人物。主君
王異たちが主と仰ぐ韋康は、荀ケの勧めで曹操により涼州刺史に任命されました。
上司の上司、つまり韋康配下は全員曹操の配下 にあたります。
曹操は馬超撃退に関わった者たちを表彰する際、彼らから事情を聞いています。
姜叙の母は曹操から直々に称賛されており、女性に関する情報も伝えられたようです。
その中に王異の話も出てきた可能性があります。
あいにく曹操は姜叙の母だけに感激の意を表したので、実際どうだったのかわかりません。
趙昂没後、王異が存命中であれば功臣の遺族として余生の面倒を看たかもしれません。

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