西晋の名将・羊祜の母は蔡邕の娘だと『晋書』に書かれました。
母が蔡琰か、はたまたその姉妹かで意見は分かれます。
2013年4月現在のネット上では姉妹説が有力です。
有力視されていながら、断定を裏付ける根拠は一つもありません。
むしろ蔡エンの母説のほうが根拠が多いことを紹介します。


蔡文姫の姉妹が母説
蔡エンを羊祜の母でないとする見方の要点は次の通りです。
1.蔡エンには兄弟が存在する
2.後漢書の夫の記録
3.羊コの出産時期

1は最も強い論拠で、『晋書』の羊コ伝と『世説新語』の注釈の蔡充(または蔡克)別伝にあります。
羊コには母方の従兄弟の蔡襲がいると書かれました。
蔡充別伝は「(蔡)充祖睦,蔡邕孫也」と、蔡ヨウに孫が居たことが書かれます。
そこから蔡ヨウには蔡エン以外にも子供が存在したと判断できます。曹操が蔡エン以外に蔡ヨウの後継ぎがいないと思ったにも関わらず。
したがって、蔡エンに姉妹がいても不思議はない家族構成になります。
2は『後漢書』の董祀妻伝の記述です。
蔡エンが帰国後に結婚した人は董祀とだけ書かれます。
それ以降の事は記録されていません。
羊コの父と思しき羊姓の人の話題は一切ありません。
それゆえ蔡エンは董祀と結婚したまま亡くなったものと思われます。
3は羊コと蔡エンの生年から言えることです。
羊コは221年の生まれ、蔡エンは通説で177年の生まれです。
蔡エンが羊コを産んだ場合、実年齢で44歳の時の子になります。
この高齢出産を非現実的と見る方が多いようです。
その場合、羊コの母は蔡エンの妹だと見ます。姉だと主張する人もいますけどね。

姉妹説の反論点−清の文献
以降が蔡エンは羊コの母説の根拠になります。
について、真っ向から否定した記述があります。
清の侯康撰『後漢書補注續 』に以下の事が書かれます。
董祀妻傳,曹操素興邕善,痛其無嗣.
 世説,軽詆篇注引蔡充別傳曰,充祖睦,蔡邕孫也.即邕似非無嗣.然晋書蔡謨伝云(謨即充子)世為著姓.曾祖睦,魏尚書.祖徳,樂平太守.不言系出伯喈.蔡豹傳則云,高祖質,漢衛尉,左中郎將邕之叔父也。祖睦,魏尚書.則睦于邕為従子行,非邕孫也.別傳殊未足據,至羊祜為邕外孫.其討呉有功,將進爵土,乞以賜舅子蔡襲.所謂舅子者,非必即邕之孫.雖従孫亦得蒙此稱也
原文を太字にした部分を意訳します。
”世説新語の蔡充別伝が言うに、「蔡充の祖父は蔡睦で、蔡睦は蔡邕の孫 である。」
つまり蔡邕に後継ぎがいなかったわけではないようだ。
蔡豹伝によると、蔡豹の祖先は蔡質で、蔡質は蔡邕の叔父である。蔡豹の祖父は蔡睦 である。
すなわち蔡睦は蔡邕の従兄弟の直系であって、蔡邕の孫ではない
この舅子は、必ずしも蔡邕の孫というわけではない。従兄弟の孫もまたこの呼び方をする 。”
蔡ヨウの子孫と呼ばれた蔡充と蔡襲を、子孫ではなく同族だと述べています。
蔡質の家系がややこしいので簡単に表記するとこうなります。
蔡質−蔡谷−蔡睦−蔡宏− 蔡豹
         蔡睦−蔡徳−蔡充 −蔡謨
蔡谷は蔡ヨウの従弟です。彼の子孫が蔡充であり、正統な蔡ヨウの子孫は存在しません
「蔡充は蔡邕の孫」というウソの記述があることがわかりました。
ウソというよりは、直系と傍系の呼び方を混同した書き方とも言えるでしょう。
つまり羊コの従兄弟と呼ばれた蔡襲もまた蔡ヨウの子孫だとは断定できない のです。
そこで清の侯康は蔡襲を蔡ヨウの孫ではない可能性を指摘し、『晋書』の記述を否定しました。

姉妹説の反論点−自説 
について、これは列女伝と列伝の意図を区別できていない方がよく主張します。
まず列伝の説明です。これは大多数を男性が占めます。
そして、大概は生まれてから死ぬまでの事跡を記録します。
一方、列女伝のほとんどは女性の輝かしいワンシーンを書き残します。
趙娥であれば父の仇討ち、夏侯令女は亡夫への貞節を示す鼻切りなどです。
王異は服毒自殺未遂と対馬超戦の2つが伝わりました。それ以降の軌跡は記録されません。
つまり列女伝は話題性のあるエピソードを収録することが目的です。
女性の一生を書き記す義務は皆無と言ってよいでしょう。
蔡エンの晩年の記録が『後漢書』列女伝に無いからといって、中年期の環境のまま没した根拠にはなりません。
史書に書くようなエピソードが無ければ書かないのです。
また、記録する史書にも問題があります。
『後漢書』はその名の通り、後漢時代の記録を収める史書です。
ところが、蔡エンの経歴はもはや『三国志』に含めてよいほど三国時代に重なります。
現時点でも時代外れな記録です。
仮に羊コの父・羊衜(ヨウドウ)に嫁いだと記録したい時、それは『晋書』に収めるべき文章になります。
西晋時代の二つ前の正史『後漢書』に載せるには不適当すぎる記述です。

の高齢出産は人によるとしか言いようがありません。
40代でも子供を産んだ女性の記録は、時代と国を問わなければごろごろあります。
本当なら同じ漢民族で三国時代の女性の例を挙げるべきでしょうが、対象が少なすぎます。
母子の生年が揃って記録されるケースは非常に稀です。
また仮に50歳で子を産んだ人が居たとしても、その人が普遍的な当時の女性代表だとは言えません。
この辺は何とも言い様がない所です。
そして、羊コの生年だけを見るから無理だと判断する人がいるんじゃないでしょうか。
羊コは羊ドウの末子の可能性が高い人物です。
同腹の姉は214年生まれで、他に同腹の兄も居ます。
他に兄弟がいる事をふまえると、40代の出産がそこまで非現実的な話にはならないでしょう。
2種類の継室
あまり問題視されない事を一点述べます。
羊コの父の羊ドウの前妻は孔融の娘 です。孔融の処刑に連座し、208年に亡くなります。
その後に蔡ヨウの娘が後妻となります。
生年の記録のある羊コとその姉・羊徽瑜は、208年より後の生まれです。
これを考えるに、蔡ヨウの娘が羊コの父と結婚した時期は208年以降が妥当です。
ですが、羊コの母を蔡エンの姉妹だと見る人はその事に触れていません。
孔融の娘が正室でいるうちから既に蔡ヨウの娘が側室として結婚していた、と見る人が大半です。
孔融の娘が亡くなったことで、繰り上がりで正室になったというのです。
筆者は変な話だと考えます。
孔融は名門の出で、その娘はお嬢様ですから正室になるのは当たり前です。
しかし、蔡ヨウにしても身分名声共に高かった人です。
そして、羊ドウの羊一族とは古くからの縁があった話があります。
正確には、羊陟という羊ドウの同族と思しき人と蔡ヨウの一族との関わりが『後漢書』の蔡邕伝に記載されます。
身分が高く親密な関係もある一族の娘を、側室として扱っていたとは考えにくいのです。
羊ドウに既に正室がいたら、別の男性の正室にさせる配慮があっても良さそうです。
ここから、この蔡ヨウの娘は羊ドウの正室が不在になってから娶った と見ると自然でしょう。
そして、孔融が処刑された時期は208年の8月です。
蔡エンが帰国したとされる時期は、一般的に207年の冬から208年の春の間です。
董祀と結婚した後に董祀と離別し、羊ドウに再嫁する事は慌ただしい人生ですけど不可能ではありません。

曹操と蔡エンの言葉
ここまではいろんな文献から考察してきました。
最後に単純に、『後漢書』の記録から考えていきましょう。
そこには曹操が蔡エンを帰国させた理由が載ります。
蔡邕に後継ぎのいない事を哀れんだ 」と、そう書きました。
これが蔡ヨウに蔡エン以外の子どもがいないと考えられる根拠です。
普通は男性が跡取りになるものですが、女性の蔡エンを引っ張り出す必要があったのでしょう。
文姫帰漢も含め、このやり取りが政治的に曹操自身を良く見せるパフォーマンスだった可能性はあります。
しかし、他に蔡ヨウの子供がいたなら後継ぎ問題の話を持ち出さないでしょう。曹操は見え透いた嘘をつくほど浅はかな人では決してありません。
かつ、『後漢書』には蔡エン作の『悲憤詩』が収録されます。
その一章にある「既至家人盡,又復無中外」は、蔡エンの一族が既にいなくなっていた ことを詠みます。
学者によっては「一族は死に絶えた」と訳します。彼女は天涯孤独の身でした。
唯一の例外は詩中に「骨肉」と呼ばれる、蔡エンを迎えに来た親戚です。
曹丕の『蔡伯喈女賦』を突き合わせると、これは周近 を指すでしょう。彼は蔡姓ではなく、直近の同族ではありません。
曹操の発言と蔡エンの詩表現から、蔡エンに兄弟姉妹は存在しません。
彼女一人が蔡ヨウの子どもでいることで、『後漢書』董祀妻伝は成り立っています。
これは他の史料を比較検討した上でも成立することです。
それゆえ羊コの母は蔡エンだと主張します。

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