夏侯淵の姪は誰の娘なのかわからず、姓が不明です。
彼女の父は一体誰なのでしょうか。
以降、便宜の都合で夏侯氏と呼びます。

−夏侯淵の亡弟−
父の記録ができないほど無名な夏侯一族、という人物は一人います。
それは夏侯淵の弟です。
記録は『三国志』夏侯淵伝の裴注『魏略』より、次の文章に登場します。
魏略曰時兗・豫大亂、(夏侯)淵以饑乏、棄其幼子、而活亡弟孤女
兗州と豫州が大混乱に陥った時、夏侯淵は食べ物に困窮し、自身の幼子を棄てて亡き弟の娘を生かした。
実の子を見捨ててまで弟の娘を救う、この行動理念は実に儒教的です。
儒教は血筋を重要視します。そして、その血脈がより貴い者を優先して残そうとします。
夏侯淵の血筋は、夏侯淵が生きている限りいくらでも増やせます。
一方、亡くなった弟の血筋は残された娘にのみ受け継がれています。
彼女が亡くなれば弟の血脈は断絶します。だから夏侯淵は自分の子より弟の娘を優先したのでしょう。
このような非情な判断は晋の名将・羊祜の母にも記録があります。
現代の感覚では理解しがたいでしょうが、当時は称賛された行為です。

−孤女を救う時期−
夏侯淵が弟の娘を助けた時期はいつ頃のことでしょうか。
兗州の混乱があり、飢饉に見舞われた時期には194年が該当します。
この時は曹操が亡き父の仇を討とうと陶謙討伐に乗り出していました。
その最中、曹操の配下であった陳宮の謀反が起きます
陳宮の手引きで呂布が兗州に入り、曹操は呂布勢と争いました。
曹操対呂布の戦時中、いなごの被害があって兗州の穀物の価格が跳ね上がり、食糧難に陥ったと言われます。
『魏略』の「亡弟孤女」の逸話はおそらくこの時に起きたのでしょう。
夏侯氏の記録自体も『魏略』の出典ですから、『魏略』としては夏侯淵弟の娘と夏侯氏は同じ人なのかもしれません。
夏侯氏は200年の時点で13〜14歳という話で、その6年前に兗州にいて夏侯淵に守られる経緯には特に無理がありません。

−本当に夏侯家の娘か−
夏侯氏が張飛に出会う経緯を考えると、彼女はそれほど夏侯家にとって大事にされた女性には思えません。
夏侯氏は薪を取りに外出していたせいで張飛に捕まりました。
張飛は彼女が良家の娘だと聞いて妻にしたわけですが、良いとこの御嬢さんが薪を拾いに出かけるでしょうか
裕福な家の女性でも機織りぐらいはしますが、野良仕事をする例はとんと聞きません。
先述の兗州の動乱のように、急に戦が勃発した実例があるのです。
常識的に考えて、娘の一人歩きなんて危険すぎてできません。
例え戦が起きなくとも、野良仕事は怪我をしたり野党に襲われたりする危険を想定してしかるべきです。
本来は身分の低い下男下女が務める仕事でしょう。良家の子女のすることではありません。
夏侯淵が実の子を見捨ててまで救った娘が、そんな下働きのような真似をして攫われ、しかも夏侯淵側は捜索も何もしなかった、という経過がどうにも腑に落ちません。
史料にあることすべてを信じれば、夏侯氏は夏侯淵の弟の娘ということで良いでしょう。
ただ経緯の妥当性を考えると、夏侯淵の弟の娘であることも良家の娘(=夏侯淵の姪)であることも疑わしい人物です。

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