夏侯氏の娘は劉禅の皇后になり、その娘は息子を生んだとされる記録があります。
具体的には劉禅が亡命してきた夏侯覇に向かって、自分の息子は夏侯一族の血を引いていると紹介した事です。
皇后の息子ならばその子が劉禅の正当な後継者になるはずです。
ところが劉禅の皇太子は263年の蜀滅亡まで張飛の娘の子ではありませんでした。
皇太子は劉璿(りゅうせん)といい、生母は敬哀皇后の侍女の王貴人です。
敬哀皇后が223年に立后した、その翌年に劉センが生まれました。
そして238年1月に劉センが皇太子となります。同時に敬哀皇后の妹が立后します。
皇后の子ではない男子が跡継ぎに決められました。
皇太子は通常、皇后の産んだ子がなるものです。
皇后に子がいない時に、側室の子が嫡子扱いを受けます
つまり、敬哀皇后は男子を産んでいなかったと考えられます。
この後、夏侯覇の亡命する249年までの間に、後添えの小張后との間に息子が出来たのでしょうか。
その場合は後継ぎ問題が生じるでしょう。
侍女上がりの側室の子では太子に不適当だ、と誰かが言い出してもおかしくありません。
そのような後継ぎ騒動の記録が無いことから、妹の張后もまた男子を産まなかった可能性が出てきます。
というよりは、劉禅が張后に子を産ませる気が無かったんじゃないですかね。
皇太子決定と立后が同じ時期です。皇后の子を初めから期待していません
俗説では「劉禅は張飛の娘を気に入っていて、姉亡き後にその妹を求めた。だから張飛の娘は美人だ」という話がありますが、そんな経緯はどこにも感じられません。
むしろ嫌々結婚させられたようです。即位後早々に侍女に手を出していますし。
ともあれ、張飛の娘は男子を産まなかった可能性が高いと言えます。
夏侯の血を継ぐ男子がいないのなら、なぜ劉禅が息子を夏侯氏の甥だと言った話が残るのでしょうか。
その疑問は次項の夏侯氏の矛盾で考えましょう。

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11/11/19Blog

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