夏侯氏は『魏略』にて、建安五年の200年の時に数え年13,4歳だったと記録されました。
逆算して生年は187年から188年の間です。
史料通りに考えると夏侯氏の生年はすぐに出ます。
これで終了しても良いのですが、更に夏侯氏の従兄とされる夏侯覇の生年を考えてみましょう。
お時間のある方だけ閲読していってください。

−夏侯覇の最遅生年−
字義的に、いとこの上下(兄弟姉妹)はいとこ同士の年齢差で決まります。
親の兄弟順とは関係ありません。
でないと馬超の従弟・馬岱が、演義で馬超の弟分でありながら馬騰(馬超父)の兄の子という設定を加えられるはずがないのです。
史書の例では夏侯荘に嫁いだ羊耽(三男坊)の娘が、羊衜(次男坊)の娘・羊徽瑜の姉(本当は従姉)と『世語』に書かれました。
つまり、夏侯覇は夏侯氏より年上です。
どんなに遅くとも187年以前に生まれている、という条件ができます。

−最短没年−
次に夏侯覇の没年を推定します。
夏侯覇は249年に蜀へ亡命しました。
『華陽国志』では249年に蜀の車騎将軍となり、255年に姜維と張翼と共に狄道の侵攻戦に参加しました。
255年までバリバリの現役 です。
それ以降の軌跡は未記載ですが、蜀志趙雲伝に夏侯覇が諡を与えられた記録があります。
先主時,惟法正見諡;後主時,諸葛亮功コ蓋世,蔣琬、費禕荷國之重,亦見諡;陳祗寵待,特加殊獎,夏侯霸遠來歸國,故復得諡
先主(劉備)の時に法正(220年没)だけが諡を与えられ、後主(劉禅)の時に諸葛亮(234年没),蒋琬(246年没),費イ(253年没),陳祇(258年 と夏侯覇に諡が与えられました。
名前の列挙が没年の早い順に並んでいます。
この書き方から、夏侯覇は陳祇の亡くなる258年以降に没したと考えられます。
『華陽国志』では陳祇の没年が259年になっていますが、今は蜀志の258年を採用しましょう。

−最少享年−
最も遅い生年と最も早い没年を合わせると、以下の享年が算出できました。
258(没年)-187(生年)=71(享年)
この年齢はあくまで理詰めで得た最少の享年です。
時間的余裕を持たせるともう少し年齢は上がるでしょう。
夏侯覇の生まれは180年代前半でしょうか。
そうなると夏侯覇は70歳代でも現役で戦っていて、80歳前後まで生きぬく 大往生を果たした、となりそうです。
ご長寿の人物は他に鍾会の父・鍾繇(享年79歳)や司馬懿の弟・司馬孚(享年92歳)などがいます。
特に司馬孚は70歳代で対呉,対蜀戦の軍隊の指揮を執っていました。
イレギュラーですが超老将の参戦は例があります。夏侯覇もそんな人だったのでしょうか。
しかし、司馬孚の立場は守備を任された総司令官です。前線に出るのは他の人の役割です。
夏侯覇はいち将軍として姜維に率いられ、対魏の侵攻戦に駆り出されていました。
司馬孚は居場所を移すことなく将兵に指示すれば良いのに対し、夏侯覇は自らが行軍に参加せねばなりません
70歳が前線を担うとは、この夏侯覇の戦歴は尋常ではない ですね。
ちなみに当時の50歳が現在の70歳のような感覚です。
50歳代ですでに老将の範疇ですし、そのぐらいの年代で没する人が多いのです。
70歳を超える後期高齢老将が、他国を攻める要員になりうるのでしょうか。
超人的な活躍をしていた人だと思ってもよいのですが、非現実的ですね。

−夏侯淵一家の平均寿命−
長寿な夏侯覇が非現実的、というのも実は夏侯淵一家は短命の者が多いのです。
夏侯淵の息子全部で7人兄弟のうち、短命だった者は三男の称・17歳没四男威・48歳没,五男栄・12歳没(戦死),六男惠・36歳没の4名です。
五男以外は自然死です。あまり長生きする家系ではなかった模様です。
没年不明なのは夏侯覇と長男夏侯衡と七男夏侯和です。
夏侯衡は父の死後に父の爵位を継承した上、安寧亭侯に封じられました。
この時期は魏志夏侯淵伝の記録より、219年から黄初年間(220−226)の間のことです。
それ以降、黄初年間中に夏侯覇、太和年間(227−238)中に夏侯覇の4人の弟は出世するのですが夏侯衡の昇進記録がありません。
おそらく弟たちが出世する頃には亡くなっていたのでしょう。
そう考えると、夏侯衡の享年はせいぜい50歳代です。
夏侯衡の死後は衡の息子の夏侯続が爵位を継ぎ、虎賁中郎将になりました。
夏侯衡が長生きしていれば就けた位が、息子のほうへ渡ったのかもしれませんね。
末子の夏侯和は晋の成立する265年以降も生存していました。
彼の生年は、五男が207年生まれのため大体210年以降でしょう。
晋成立時の夏侯和は40〜50歳代なのでごく普通の年齢です。
265年より後の記録はなく、特に戦に関わったことはないようです。
以上の他の兄弟の年齢を視野に入れると、夏侯覇の長生きぶりは異常です。
夏侯覇は190年以降の生まれが妥当 でしょう。
夏侯氏が夏侯覇の従妹という話はデタラメの線が濃厚ですね。

−夏侯覇の没年−
余談ですが夏侯覇の没年はいろいろと推測できます。
『華陽国志』巻7にて、夏侯覇は亡命後すぐに車騎将軍になりました。
そして同書の記録によると、259年6月以降に張翼が左車騎将軍に、廖化が右車騎将軍になりました。
新たな車騎将軍の誕生はつまり、夏侯覇が車騎将軍の任を解かれたことに繋がります。
となると張翼と廖化の就任前に亡くなった可能性が出てきます。
夏侯覇が転任したり辞任したりしても記録抜けが起きた可能性もあるため、確定事項ではありません。
例えば同書には夏侯覇以前にケ芝が車騎将軍となった記録があり、巻1には250年の記録に「車騎将軍ケ芝」と書かれています。
250年時は夏侯覇が車騎将軍だったのでしょうけれど、あまり厳密な記録はされていないのです。
その他、先述の趙雲伝の記録と『華陽国志』を合わせて考えてみましょう。
260年の9月に5人の蜀将が追諡されました。それは関羽、張飛、馬超、龐統、黄忠です。
遅れて261年3月、趙雲が追諡されました。
蜀志では趙雲の諡の説明の後に、法正以下夏侯覇まで諡を賜った人物が紹介されます。
法正から夏侯覇までの人物は追諡ではなく、死後すぐに諡を与えられています。
趙雲の諡の後に夏侯覇の諡の記録を載せる書き方により、夏侯覇は趙雲より後に諡を貰った=261年以降に亡くなったとの読み取りができます。
なお、演義115回では夏侯覇は景耀5年262年10月以降の洮陽の戦いで戦死したことになっています。この解釈も史的にありです。
没年は特定できませんが、確実な事は蜀漢滅亡の263年以前に亡くなったということです。
この場では夏侯覇の没年は258年から263年の間で、演義では262年の設定だと結論付けます。

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