穆后は、呉懿の妹で劉備の妻です。陳留の出身だとされます。
陳寿の記述に伝があり、姓でなく諡で呼ばれる皇后です。呉の国の記述と紛らわしくないようにした配慮でしょう。
演義では呉太后と呼ばれています。

穆后は幼いうちに孤児となり、父と知り合いだった劉焉を頼って蜀に入ります。
劉焉は野望を抱いており、人相見が穆后の容貌を見て、大変高貴な身分になるはずだと述べたことを聞きつけました。
劉焉は子の劉瑁を連れて、劉瑁のために穆后と婚姻を結ばせました。
しかし劉瑁が死に、穆后は未亡人となりました。
その後、劉備と結婚するまでの記録は一切ありません。
劉焉が穆后を使ってのし上がろうとするならば、劉瑁没後に別の兄弟に嫁がせればよいと思いますが、特に行動は起こしていないようです。
すでに他の息子には正室がいて、その女性を排除する気にはならなかったのでしょうか。
通常、女性が高貴になることは正室になれることも意味すると思われます。
側室や妾で高貴な身分だと言われた女性は聞いたことがありません。
劉焉のようなそこそこに高い地位に就けば、息子の正室は良い所の御嬢さんでしょう。
そんな女性が離縁されたり急死したりする事態が起こっては劉一族の印象が悪くなります。
劉瑁の妻としたのも、まだ劉瑁が妻を娶ってなかったからかもしれません。

劉備が益州を平定した後に孫夫人が呉へ帰ったので、臣下たちは劉備に穆后と結婚するように勧めました。
劉備は劉瑁と自分が同族であることを考え、踏ん切りがつかない所に法正がこう述べました。
「関係の遠近を見ると、晋の文公と子圉に比べてどうでしょうか。」
法正がそう言った結果、劉備は穆后を娶って夫人としました。
建安二十四年(219年)に穆后は漢中王后となります。
章武元年(221年)五月に正式に皇后となり、建興元年(223年)に劉禅が即位すると皇太后となり長楽宮と称しました。
延煕八年(245年)に穆后は逝去し、劉備が葬られた恵陵に合葬されました。

甘后とは違い、皇后とする際の言葉には穆后を誉める言葉がありません。
それは張后も同じことです。
甘后は側室のままで亡くなったため皇后とするべき根拠が弱く、褒めちぎることで皇后へとゴリ押しされたのでしょうか。
演義では賢夫人として立ち回る穆后ですが、正史だと何の人格も見出せません。
劉瑁との結婚も劉備の縁談も、周囲に振り回されているように見えます。
穆后はあまり自己主張しない女性だったのかもしれませんね。

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