鄒氏は、張繍のおばで張済の妻です。夫に先立たれた未亡人です。
正史三国志の張繍伝に存在が確認できました。
彼女は美女として有名ですが、正史には美女だと記録されておりません
それどころか鄒という姓(または名、字)さえ見当たりませんでした。
なぜ記述のない話が大手を振っているのか、それは別の項目にて考察します。
彼女には正式な呼び名がないようです。
史料を総当たりすれば見つかるかもしれませんが、現時点では不明です。
逐一「張繍のおじの張済の妻」と言うのもなんですから、鄒氏と呼びます。
まずは曹操と甥の張繍が関わる成り行きから見ていきましょう。
夫の張済は董卓に仕えた武将でした。董卓の死後も甥の張繍と共に軍功を挙げていきます。
しかし戦時中、張済は流れ矢にあたって亡くなりました。
張繍が張済の軍を引き継ぎ、一度宛城に駐屯しました。
その後、曹操が張繍を討伐しようとして淯水(いくすい)に陣を敷くと、張繍は軍を率いて降伏しました。

張繍は元董卓配下ですから、逆臣・董卓と同様に殺されても文句は言えない立場です。
曹操に刃向っても死ぬだけだと思ったのでしょう。曹操に恐れをなして降ったわけです。
命拾いしただけでもありがたい事ですが、張繍は決して曹操を良く思いませんでした。
曹操がおじの張済の妻を妾とします。この事に張繍は怨みを抱きました。
後に張繍は反乱を起こしますが、動機は鄒氏を妾にされた事ではありません。
曹操が張繍殺害計画を企て、それを張繍が知ったからです。
曹操が張繍を殺そうとしたのは、張繍が曹操に対し不満を抱いていることを告げた者がいたためです。
何を不満に思ったのか、その具体的な説明は正史に書かれていません。
話の流れからすると、曹操が鄒氏を妾にした行為なのでしょう。

その後の鄒氏に関連する記述はありません。
曹操の子を産んだ記録も無い所や、張繍が起こした反乱での曹操の被害を見ると、抗争に巻き込まれて亡くなった可能性が高いでしょう。
その場合、張繍は鄒氏のことはどうでもよく、自分が助かることを第一にしている人だと言えます。
鄒氏が世間で言われるような、男を魅了する妖婦だった時には少々考えにくい事です。
その事については別の項目で述べます。

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11/2/21up

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