楊礼珪
礼珪は慎み穏やかで、物言いには典雅な響きがあった。礼珪は成固の陳省の妻である。楊元珍の娘で二男を生んだ。長男は張度遼の娘恵英を娶り、年下の子は荀氏を娶った。いずれも貴家・富豪であり、婢七、八人を従え、資財は自然に増大した。礼珪は(息子たち)二婦に戒めて言う、「私の姑は母師と言える人でした。常に仰っていました、『聖賢と云われる人は、必ず民を労う、そうすれば民は善実践を心がける』と。労りの配慮が無ければ、民は努力を怠ろうとし、その結果、能力を発揮しないままとなる。我が家は貧乏ではありません。(なのに、日々)粗食を作る理由は、困難に苦しむことを体験し、独り身になった時にも困らぬように心構えを養うためです」と。二婦は再拝して教えを奉じた。従孫に上への奉じ方にやや怠慢が有った時、珪は(従孫を)退け拒絶した。彼は自分で(自分の過ちに)気付き行ないを改めた。乱に遭遇して他郷を彷徨った時でも、宗族や親戚が面会を求める時にも必ず厳正に身繕いをし、子孫や侍婢を従えて引見して言う、「これは先代の姑の法です」と。四季に祭祀を執り行い、自分で牲(いけにえ)を養い酒を醸して言う、「祭祀は礼の尊です」と。89歳で死去した。(長男の妻の)恵英もやはり淑訓を発揮して、母師としての尊厳を実践した。

【華陽国志巻10之10】



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