夏侯氏
建安五年(200年)、夏侯覇の従妹は年齢が13,4の頃〔1〕に本郡におり薪を取りに出かけたところ、張飛に捕まった。張飛は彼女が良家の娘〔2〕だと知ると、妻にし、娘が産まれ、その娘は劉禅の皇后となった。
(おじの)夏侯淵が亡くなると、張飛の妻は夏侯淵の埋葬を請うた。夏侯覇の入蜀の際、劉禅は夏侯覇に向かって言った。「貴方の父の不幸は戦場で起きたもの、私の父が手にかけたわけではないぞ」
そして劉禅は自分の子を指さして言った。「この子は夏侯氏の甥だ〔3〕
(夏侯覇は)手厚く迎えられ爵位と恩寵を賜った。

【巻9・夏侯淵伝裴注『魏略』】

〔1〕従兄の夏侯覇は188年より前の生まれということになる。夏侯覇は『華陽国志』において255年に狄道の侵攻戦に参加したと記録があり、実に70歳を超えての北伐参加となるが、年齢に無理があるだろう。
〔2〕当時の情勢を鑑みるに、良家の子女が薪拾いに出かける行為は危険が多く不自然。本当に良家の出身だったか疑わしい。
〔3〕蜀志劉璿伝には、劉禅の嫡子の実母を敬哀皇后の元侍女・王貴人と記載。劉璿は238年に皇太子になり263年の蜀滅亡までその地位は変わらなかった。本来皇太子は皇后の実子または養子が就くものであり、皇后の子が太子に選ばれなかったということは、皇后に子はいなかったはずである。この記録もまた真実か疑わしい。

三国列伝へ戻る

14/11/4up

inserted by FC2 system