王異−1
趙昂の妻の異は、故益州刺史の天水の趙偉璋〔1〕の妻、王氏の娘〔2〕である。
趙昂が羌道の令となり、王異は西県にいた。同郡の梁双が反乱を起こし、西城を攻め破り、王異の息子2人を殺した。王異の娘の英は年6歳、王異と共に城の中に居た。王異は二人の子が死んだのを見、また梁双に身を汚されることを恐れ、刀を抜いて自刎しようとした。しかし趙英を見て嘆息し、こう言った。
「私が死んだなら、お前は誰を頼りにすればいいのでしょう。西施〔3〕も不潔な服を着れば人は鼻をつまむといいます。まして私は西施ではない」
すると(己を醜く見せるために)汚物を麻に塗って纏い、食を減らして痩せこけ、(季節は)春から冬に至った。梁双は州郡と和解し、王異は難を逃れることが出来た。趙昂は役人をやってこれを向かえ、(趙昂の居る所まで)30里に至らないところで王異は止まり、趙英にこう言った。
「婦人は正式な印やお付きの者がなければ部屋から出ないものです。昭姜〔4〕は流れに身を投じ(て溺死し)、伯姫〔5〕は身を焼かれるのを待ちました。彼女たちの伝記を読むたび、その貞節を壮絶に思ったものです。いま私は戦乱にあって死ぬことができず、どうして姑たちに会うことができましょうか。死なずに生きながらえていたのは、ただお前のことを哀れに思っただけのこと。(父のいる)官舍はもう近くです、私はお前と別れ、死ぬことにしましょう」
そして毒薬を飲んで倒れた〔6〕。その時ちょうど解毒に効く薬湯があった〔7〕ので、(役人が)口を開けてこれを流し込み、息を吹き返した。

【卷25・楊阜伝裴注皇甫謐『列女伝』】

〔1〕同書楊阜傳裴注『魏略』には趙昂の字を偉章と記載。
〔2〕『資治通鑑』及び『三国志集解』中の胡三省の注釈では「士氏の女」と記載。また『伏羌縣志』列女志の侠婦篇及び『続後漢書』巻78では王異を趙偉璋の娘とする。
〔3〕中国四大美女の一人。越王勾践が呉王夫差を討つために送った傾城の美女。
〔4〕劉向『列女伝』巻4に記載のある貞女。貞姜ともいう。楚の昭王の夫人で、夫の留守中に川が氾濫し王の使者が迎えに来た。しかし使者は正式な王の使いの証である符を忘れたために迎えに応じず、そのまま溺死した。
〔5〕劉向『列女伝』巻4に記載のある貞女。宋の恭公の夫人。夫の没後、夜中に火事が起こり周囲の人々は避難するよう言ったが、正統な側近と伴って出かけねば婦人の義理にもとると答えて承諾せず、ついに焼け死んだ。
〔6〕自決しようとした際に所有していた刀は梁双の捕虜となった時に奪われたのだろう。
〔7〕偶然にしては出来すぎな感がある。妻の気性を知っていた趙昂が使者に持たせたのだろうか。

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