穆皇后
先主(劉備)の穆皇后〔1〕は陳留の人である。兄の呉壱は幼くして孤児となった。呉壱の父はかねて劉焉と旧知の間柄であったため、一家揃って劉焉に従って蜀に入った。劉焉は反逆の志を抱いていて、人相を鑑定する者が穆后の容貌をみて、高貴な身分になると判断したのを聞いた。劉焉はみずから子の劉瑁をつれて訪れ、劉瑁のために穆后を娶った。劉瑁が死に、穆后は未亡人となった。
先主が益州を平定したあと、(劉備の妻だった)孫夫人は呉に帰ったので、群臣が先主に穆后を娶るように勧めた。先主が劉瑁と同族であることを懸念したところ、法正が進言した。「関係の遠近を問題にすると(春秋時代の)晋の文公と子圉に比べてどうでしょうか」と。その結果、(劉備は)穆后を娶って夫人とした。
建安二十四年(219年)、立后して漢中王后とした。章武元年(221)夏五月の任命書にいう「朕は天命を受けて至尊の位につき、万国に君臨することになった。いま后を皇后とし、使持節・丞相の諸葛亮をつかわし、璽綬をさずけ、宗廟を奉じさせ、天下の母とする。皇后よ、これを敬(つつ)しめ」
建興元年(223)五月、後主が即位し穆后を尊んで皇太后とし、長楽宮と称した。呉壱は車騎将軍の官まで登り、県侯に封じられた。延煕八年(245)、穆后は逝去し、恵陵に合葬された。

【巻34・穆皇后伝】

〔1〕『永興呉氏宗譜』には名を莧と記載。

三国列伝へ戻る

14/11/4up

inserted by FC2 system