卞皇后
武宣卞皇后は琅邪郡開陽の人で、文帝(曹丕)の母である。もとは倡妓の出身〔1〕であった。

『魏書』曰く、后は漢の延熹三年(160年)12月己巳〔2〕に齊郡の白亭で生まれた。(天子誕生を意味する)黄雲が部屋に満ち、父・敬侯がこの現象を怪しみ占い師の王旦に尋ねた。旦曰く「これは吉祥です」

20歳で太祖(曹操)が譙において側妾とした〔3〕。后は太祖に従い洛陽に向かった。董卓による混乱が起こり、太祖は東へ脱出して非難した。袁術が太祖に不幸があった(死亡した)と(后に)伝え〔4〕、その時に洛陽に来ていた太祖の側近たちは皆帰国しようとしたが、后がこう言って制止した。
「曹君の吉凶はまだわかりません。(我々が)今日帰国し、明日(曹君が)お戻りになったら、会わせる顔がないではありませんか。例え本当に(曹君が)災いに遭ったとして、共に死ぬのに何の苦がありましょう」と。
ついに(側近たちは)后の言葉に従った。のちに太祖がこのことを聞き、大層喜んだ。
建安年間の初め、丁夫人は離縁され、后が後妻となった〔5〕。諸子のうち母のいないものは、太祖の命により后がすべて養った。

【巻5・武宣卞皇后伝】

〔1〕当時の倡妓は歌舞演奏を生業とする。社会的地位は低かった。
〔2〕延熹三年の12月に己巳という日は存在しない。また、曹操や曹丕でさえ生まれた月日が不明である。身分の低い卞后では尚のこと生年の記録が残るはずがない。後世の人の作り話だろう。
〔3〕曹操が譙に帰っていた時期は178年から180年と185年から188年。卞后の長子・曹丕が187年の生まれのため、185年頃の事か。
〔4〕卞后は袁術の姉妹の楊彪夫人と手紙のやり取りをしていた形跡がある。袁術とも面識があったか。
〔5〕曹操の嫡子・曹昂が亡くなる197年のことか。

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