張春華
宣穆張皇后は諱を春華といい、河内郡平皋(ヘイコウ)の人である。父の張汪は魏の粟邑(ゾクユウ)の令である。母は河内の山氏で、司徒山濤の祖父母の姉妹(大おば)である。后は若い頃に道徳にかなった行いがあり、知識は並みの人より勝っていた。景帝(司馬師)、文帝(司馬昭)、平原王の司馬幹〔1〕 、南陽公主を産んだ。
宣帝(司馬懿)は初め魏武(曹操)の(出仕の)命を辞し〔2〕 、(その際に)風痺を口実にしていた。かつて書物を(屋外に出して)日にあてていた時、突然雨が降り、(司馬懿が)自ら書物を回収して(屋内へ入れて)しまった。ただ一人の召使いがこれを見ており、后は事が漏れて災いを招くのを恐れ、ついに召使いを殺して口を封じ、自ら家事を担った。帝はこの一件によって后を重んじた。〔3〕
その後柏夫人に寵愛があり、后はお目通りを許されることも稀になった。帝がかつて疾病により臥せっている時、后は病の様子を見に行った。帝が言うに、「老物は憎らしいものだ、なぜ(自分の前に)出てきていらいらさせるんだ!」后は恥じて怒り、食を断ってまさに自殺しようとし、諸子〔4〕 もまた食を断った。帝が驚いて謝ると、后はようやく(断食を)やめた。帝が(部屋を)退出する時に人にこう言った。「老物(の命)は惜しくない、ただ我が子を苦しめたくないだけだ!」〔5〕
魏の正始八年(247年)に亡くなった。享年59。洛陽の高原陵〔6〕に葬られ、広平県君と追贈された。咸熙元年(264年)に宣穆妃と追号され、武帝(司馬炎)が禅譲を受けると、皇后と追尊された〔7〕

【晋書巻31】

〔1〕唐の房玄齢『晋書』の記録上、司馬幹の生年は232年である。その頃の宣穆后と司馬懿は後述の記録より疎遠だったはずで、司馬幹の母は別人であろう。司馬懿の子らを母不詳とするには忍びないため適当な夫人を宛がわれたか。また、朱鳳『晋書』には司馬昭を司馬懿の次男と記載するもののその母は不明である。
〔2〕初めの出仕要請は『晋書』には201年のことと記載。『三国志』では司馬懿が要請を承諾する年は曹操が丞相となった208年。その間、曹操は許都を無防備にし劉表による許都侵攻の危険を抱えながら河北平定に精力を注いでいた。曹操の事跡より、曹操に3回以上の出仕要請をする余裕は無かったと思しい。
〔3〕『晋書』の記録をもとにすると当時宣穆后は満12歳。司馬懿との婚姻はそれ以前ということになり、年齢に無理がある。
〔4〕司馬懿が宣穆后を老いぼれと称したため晩年の記録だと思われるが、その頃の司馬師・司馬昭らは既に出仕しており、かつ妻子を有している。食を断った者に諸子の妻子は含まれない記述より、これは諸子の幼い頃に起きたことか、または宣穆后が司馬師・司馬昭の実母でないことを意味するか。
〔5〕このような皇帝,皇后共々を貶める記録は、暴虐残忍な者以外、通常は隠して載せない。また、非皇族の出身者かつ王朝を開いた開祖皇帝の祖母のうち、諱及び経歴が伝わる者は宣穆后のみ。現行の『晋書』以外には記録が残らず、宣穆后の事跡は唐代人の作り物か。
〔6〕高原陵は司馬懿の陵の名称だが、司馬懿の埋葬地は洛陽ではなく首陽山。また記録上は宣穆后のほうが先に亡くなっているため、正しくは「洛陽に埋葬された」とするべき。司馬懿の没後に改葬された記録はなく、司馬懿の遺言も合葬を拒んでおり、司馬師の皇后,司馬昭の皇后らとは違い夫婦別々の埋葬だった。
〔7〕南梁の『宋書』巻16には「武帝泰始元年十二月丙寅,受禪。丁卯,追尊皇祖宣王為宣皇帝,伯考景王為景皇帝,考文王為文皇帝,宣王妃張氏為宣穆皇后,景王夫人羊氏為景皇后」とあり、他の史書で宣穆后の姓と諡が確認できる。

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