王元姫
文明王皇后は、諱を元姫〔1〕といい、東海郡郯の人である。父王粛は魏の中領軍で蘭陵侯である。后は8歳の時に詩経と論語を暗誦し〔2〕 、喪に最も精通していた。いやしくも文義があり、一目見れば必ず文意を解した。
9歳の時母が病に伏せ、母の看病をした際に衣を脱ぐ(服を着替える)ことなくいることが久しく続いた。いつも先々のことを予想し動くことは適切で、父母に家事をするよう言われた時は、ことごとくその意味を理解した。祖父の王朗は孫娘を甚だ愛して言う、「我が家を興す者はこの娘だ、男でないのが惜しい〔3〕」と。 12歳の時に王朗が亡くなった。后は悲しんで哭泣する様は自然で、父はますます敬異を加えた〔4〕 。笄を挿す〔5〕 に年頃に文帝(司馬昭)に嫁ぎ、武帝(司馬炎)、遼東悼王定国、斉献王攸、城陽哀王兆、広漢殤王広徳、京兆公主を生んだ。后は夫の両親にはことごとく婦人の道徳を以て仕え、目下のものには謙虚に、侍妾〔6〕 には秩序をもって接した。父の喪に及んで、体は重たい衣服を着れないほど(弱って)涙を流して悲しんだ。時に鍾会が才能を以て登用され、后はいつも帝(司馬昭)に言う、「鍾会は己の利益を見て義理を忘れます。もし重用すれば必ず混乱を招くでしょう。大役を任せてはいけません」と。鍾会はその後反乱を起こした〔7〕
武帝が禅譲を受け、后を尊んで皇太后とし、崇化宮と称した。はじめに宮卿を起き、重臣にその職を選び、太常の諸葛緒を衛尉とし、太僕の劉原は太僕のまま、宗正の曹楷を少府とした。后は高い身分にあっても日頃の職務を忘れず機織をし、食器や衣服には模様の無い(安価な)ものを使い、洗濯した衣服を御し、食事には贅沢なものをとらなかった〔8〕 。九族と和睦をはかり、関心は万物のものに向けられ、言葉には必ず礼儀があり、誹謗中傷は受けなかった〔9〕

【晋書巻31】

〔1〕『太平御覧』巻138引く王隠『晋書』には諱の記録がない。
〔2〕魏志鍾会伝裴注『鍾会母伝』には、鍾会が7歳の時に論語を、8歳の時に詩経を暗誦したと記載。古来より教養人は論語と詩経の暗記が常識だった。
〔3〕王粛には聡明な息子があったが、王粛(194或いは195年生まれ)と王后(217年生まれ)の生没年の記録を考えるに、王后は王朗にとって初孫である。これは王粛の男児がまだ育っていない時か、女児のみ生まれている時に言われたのだろう。
〔4〕同様の逸話が曹丕の甄后にもある。また、甄后も幼少時から文書を善くした。
〔5〕成人を意味する。『礼記』より女性の成人年齢は数え15歳に定まっていた。房玄齢『晋書』の生没年の記録より、231年のことか。
〔6〕『太平御覧』巻145に引く『晋起居注』によると司馬昭の側妾に修華の李琰(玉)、修容の王宣、修儀の徐琰(玉)、婕、の呉淑、充華の趙珽がいた。
〔7〕魏志鍾会伝によると、鍾会は264年に独立を謀り反逆者となって殺された。その原因は司馬昭が鍾会を信任したからに他ならない。同伝中は司馬昭が鍾会の動きを察知していた風に書かれるが、これは皇帝の短慮を隠し美化するための捏造だろう。王后の言葉も婉曲的に捏造を正当化した偽りの可能性が高い。
〔8〕華美を好まず粗食をとった皇后には曹操の卞后がいる。
〔9〕原文は「浸潤不行」とあり、『論語』中の「浸潤之譖」より浸潤は讒言を意味するようになった。司馬家が皇族となる禅譲劇は司馬昭が曹髦を弑したことが決め手であり、不義不忠の者への批難はあったはずだ。その后への誹謗が免れ得たとは考えにくく、この記述は司馬家の汚点を隠し美化するための虚言だろう。

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