胡芳
胡貴嬪は名を芳という。父の胡奮は別に伝がある。泰始九年(273年)、帝(司馬炎)は多くの良家の娘の中から内宮に勤める者を選び、自らその容色の美しい者の腕に赤い絹を結んだ。胡芳が選ばれ、その場で声をあげて泣くと周囲の者が制止して言う、「陛下に聞こえてしまう」と。胡芳が言う、「(私は)死をも恐れないのに、どうして陛下を恐れる必要があるのですか〔1〕」と。帝は洛陽令の司馬肇を派遣し策書をもって胡芳を貴嬪とした。
帝は常々(胡芳に)相談し、その言葉は飾り気がなく率直であり、入退室の仕草には雅さがあった。時に帝には多くの寵姫があり、呉を平定した後はさらに孫晧の女官を後宮に納め、後宮の官女はまさに一万人となった。並びに寵愛ある者は甚だしく大勢であり、帝はどの女性と会えばわからず、常に羊車に乗り羊の好きなように行かせ、羊が止まったところにいる女性と同衾した。女官は(その羊を自身の部屋の前に止まらせるため)竹の葉を戸にはさみ、塩水を地面に垂らして帝の車を引きとめた。しかしながら(細工をしない)胡芳に最も寵愛があり、ほとんどその寝室において寵愛を独占し、侍従および衣服装飾品(の豪華さ)は皇后に次いでいた。帝がかつて投壺の遊びをした時、胡芳が矢で司馬炎の指を傷つけた。帝が怒って言う、「やはり(匈奴を討った)将軍の子だ」と。胡芳が答えて言う、「北の公孫は討ちましたが、西の諸葛(諸葛婉〔2〕)には及びません。どうして将軍の子だと言えましょうか〔3〕」と。帝は甚だ恥じ入った。胡芳は武安公主を生んだ。

【晋書巻31】

〔1〕『晋書』巻57胡奮伝では、胡奮も胡芳の後宮入りを悔しがった。胡奮は娘が司馬炎の貴人になったと聞くと涙を流し「「老いぼれは死なず、ただ子どもが二人あるのみ。その子どもも息子は九地の下(墓)に入り、娘は九天の上(後宮)にあがるのか」と嘆いた。
〔2〕諸葛婉も司馬炎の寵姫だった。この時、司馬炎の寵愛が諸葛婉に向けられていたことを指すか。
〔3〕もはや胡奮の娘ではなく、司馬炎の側妾だと言っているか。

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