龐行
広漢郡(四川省)の姜詩の妻は、同郡の龐盛の娘〔1〕である。姜詩は母に対してきわめて親孝行であった。妻は特にこの姑によく仕えた。
姑は大川の水を飲みたがった。川は家から六、七里離れている(涪江の上流にあたる)。妻はいつも流れを溯っては水を汲んだ。或る日、大風が吹いて、水を汲めぬまま引き返した。姑をのどを乾かし、姜詩は妻を叱って追い出した。
妻は隣の家に泊めてもらい、昼も夜も糸を紡ぎ、働いた金で珍しいご馳走を買っては、その家のお婆さんに頼んで、その婆さんからの差し入れとして姑に届けてもらった。そうしたことが暫く続く。姑は怪しんで隣の家の婆さんに問う。婆さんは委細を打ち明け、姑は感じ入り恥じて嫁をよび戻した。妻は益々姑に尽くした。
その後、わが子が遠くに水汲みに行ったところ、溺れ死んだ。妻は伯母が悲しんでがっかりせぬかと気遣い、事実を告げず、遠くに遊学に出たと言いくるめた。
姑は魚の刺身が好きだった。しかし自分ひとりで食べることを嫌った。夫婦はいつも精を出して働いては刺身を買い、隣の婆さんを呼んで姑と一緒に食べさせた。ある時、家のわきに突然泉が噴き出した。泉の味は揚子江の水のようで、毎朝必ず二匹の鯉を出した。いつもそれを姑と婆さんの膳につけた。
赤眉(王莽に反抗して発生した流賊)の残党が姜詩の村を通りかかったが、「大の孝行者を驚かしては、きっと鬼神の祟りを受けよう」と言って刃を鞘に収めてそのまま通過した。
当時は飢饉であった。賊は姜詩に米と肉を贈った。姜詩は受け取ったが、食わずに埋めた。近隣の部落は姜詩のおかげで無事であった。永平三年(60年)、姜詩は孝廉に推薦された。明帝は詔勅を降してこういった。
「大孝の人がわが朝廷に入った。同時に推挙された者はすべて右に倣って採用を許可する」と。
このため推薦を受けた者はみな郎中(宿衛の官)に任ぜられた。姜詩は次いで江陽(四川省濾県)の県令に任ぜられ、任地で亡くなった。姜詩のいた地方はよく治まり、里の人は姜詩のために祠を建てた。

【巻64・姜詩妻伝】

〔1〕『華陽国志』では名を行と記載

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