馬倫
汝南郡の袁隗の妻は、扶風郡の馬融(大儒者)の娘である。字は倫。袁隗のことは列伝の前の部分に見える。倫は幼いころから才気走り、弁が立った。馬融の家は代々金持ちで、嫁入支度も豪華だった。式が済むと、隗が質問した。
「婦というものは箒だけ持って来ればよい(婦は箒と女の組み合わせた漢字)。なぜこのように贅沢なことをする」と。
馬倫「両親が私を可愛がってしてくれたことです。反対するわけにはいきません。あなたがもし鮑宣・梁鴻の高潔さを慕われるのでしたら、私も少君(鮑宣の妻)・孟光(梁鴻の妻)をまねましょう」
袁隗「弟が兄より先に仕官すると、世間では笑い者になる。今、そなたの姉さんはまだ嫁がぬのに、そなたが先に嫁いでもよいのか?」
馬倫「私の姉は並み外れて優れた方で、いまだに釣り合う殿方が見付かりません。私のように良い加減なところで妥協しないだけですわ」
袁隗「南郡殿(馬融は南郡太守)は、学問は奥義を窮め、詩文は当代随一といわれる。だがどこの官に就かれても、毎度金品のことで評判を落とされる。なぜだ?」
馬倫「孔子は大聖人でしたが、それでも叔孫武叔(魯の貴族)の悪口を免れませんでした。(『論語』子張)。子路は賢人でしたがそれでも公伯寮(魯の陪官)に讒訴されました(『論語』憲問)。聖人君子でさえこのようなのです、お父様が世間から悪口をいわれても当然ですわ」
袁隗は馬倫を言い負かせないで黙りこんだ。几帳の外で二人の会話を聞いていた家族は恥ずかしい思いをした。
袁隗は時の君に気に入られ出世した。馬倫も世に有名であった。
馬倫は六十余歳で亡くなった。馬倫の妹の馬芝も才能と品行が優れていた。幼いころに親を亡くし、成長してから親のことを追憶して「申情賦」を作ったという。

【巻84・袁隗妻伝】



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