蔡琰−1
陳留郡(河南省)の董祀(トウシ)の妻は、同郡の蔡邕(サイヨウ)〔1〕の娘である。名は琰,字は文姫。博学にして弁舌に巧みだった。さらに音楽に精通していた。河東郡(山西省)の衛仲道〔2〕に嫁ぎ、夫が亡くなると子がいなかったので実家に帰った。興平(194-195)年間〔3〕中に天下は動乱が起こり、文姫は匈奴の騎兵に捕まり、南匈奴の左賢王の妾になった。匈奴に住むこと十二年、二人の子を生んだ。曹操はもともと蔡邕と仲が良かった。蔡邕の後継ぎがいないのを気に病み、匈奴へ使者を遣わし黄金と璧玉をもって文姫を買い取り、董祀に再嫁させた〔4〕

『列女後伝』によると、蔡琰の字は昭姫〔5〕といった。
劉昭の『幼童伝』は次の出来事を記す。蔡邕が夜に琴を弾くと絃が切れた。その時に蔡琰は「第二絃が切れました」と言った。蔡邕「偶然当てただけだ」と言った。確認のためにもう一絃をわざと切り、どの絃が切れたか蔡琰に尋ねた。蔡琰は「第四絃が切れました」と言い、またも正確に言い当てた。

【巻84・董祀妻伝】

〔1〕字は伯喈。178年に書いた『被収時表』には46歳にして息子がいないことを述べた。そのため女性でありながら蔡琰が蔡邕の後継者として育てられたと思しい。
〔2〕河東の衛氏で有名な者は書家でもある衛覬字は伯儒や、その息子の衛瓘がいる。蔡家も名声があり優れた文人を輩出した共通点より、衛仲道はこの衛一族の者か。
〔3〕『太平御覧』等に収録された『蔡琰別伝』に年号は記載なし。沈欽韓、戴君仁など後世の研究者には蔡琰の拉致時期を初平年間の誤りだとする者もいる。
〔4〕曹丕作『蔡伯喈女賦序』にも同様の事跡が載る。
〔5〕晋時代の皇帝・司馬昭の諱を避けて名を改めて記録された者に、呉の韋昭(呉志では韋曜)がいる。 忌避を行なわない『列女後伝』は曹魏の治世において成立したものだと推測できる。『後漢書』列女伝は晋代に作成された蔡琰の伝記(『蔡琰別伝』)を元に編纂したため、字を文姫と記載したのだろう。

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