原文はここから引用しました。
zh.wikisource.org/zh/%E6%99%89%E6%9B%B8/%E5%8D%B7031
2010年12月17日に取得した文章です。
誤字の部分がありますが、本筋に関わる間違いではないのでそのままにします。張春華本人を表す言葉が間違ってるというやる気のなさです。


 宣穆張惶後,諱春華,河內平皋人也。父汪,魏粟邑令。母河內山氏,司徒濤之從祖姑也。後少有コ行,智識過人,生景帝、文帝、平原王幹、南陽公主。宣帝初辭魏武之命,托以風痹,嘗暴書,遇暴雨,不覺自起收之。家惟有一婢見之,後乃恐事泄致禍,遂手殺之以滅口,而親自執爨。帝由是重之。
其後柏夫人有寵,後罕得進見。帝嘗臥疾,後往省病。帝曰:「老物可憎,何煩出也!」後慚恚不食,將自殺,諸子亦不食。帝驚而致謝,後乃止。帝退而謂人曰:「老物不足惜,慮困我好兒耳!」魏正始八年崩,時年五十九,葬洛陽高原陵,追贈廣平縣君。咸熙元年,追號宣穆妃。及武帝受禪,追尊為皇后。
 宣穆張皇后は諱を春華といい、河内郡平皋(ヘイコウ)の人である。
父の張汪は魏の粟邑(ゾクユウ)の令である。母は河内の山氏で、司徒山濤の祖父母の姉妹(大おば)である。
后は若い頃に道徳にかなった行いがあり、知識は並みの人より勝っていた。
景帝(司馬師)、文帝(司馬昭)、平原王の司馬幹、南陽公主を産んだ。
宣帝(司馬懿)は初め魏武(曹操)の(出仕の)命を辞し、(その際に)風痺を口実にしていた。
かつて書物を(屋外に出して)日にあてていた時、突然雨が降り、(司馬懿が)自ら書物を回収して(屋内へ入れて)しまった。
ただ一人の召使いがこれを見ており、后は事が漏れて災いを招くのを恐れ、ついに召使いを殺して口を封じ、自ら家事を担った。帝はこの一件によって后を重んじた。

その後柏夫人に寵愛があり、后はお目通りを許されることも稀になった。
帝がかつて疾病により臥せっている時、后は病の様子を見に行った。
帝が言うに、「老物は憎らしいものだ、なぜ(自分の前に)出てきていらいらさせるんだ!」
后は恥じて怒り、食を断ってまさに自殺しようとし、諸子もまた食を断った。帝が驚いて謝ると、后はようやく(断食を)やめた。
帝が(部屋を)退出する時に人にこう言った、「老物(の命)は惜しくない、ただ我が子を苦しめたくないだけだ!」
魏の正始八年(247年)に亡くなり、享年五十九歳だった。洛陽の高原陵に葬られ、広平県君と追贈された。
咸熙元年(264年)に宣穆妃と追号され、武帝(司馬炎)が禅譲を受けると、皇后と追尊された。

張春華を誉める言葉のあるページはここだけです。
以降の項目に同じ高評価を期待されぬよう、二回目の注意を促しておきます。


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